カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 east[7]

投稿日:2013年7月23日

カトレアの誓い

千葉←東京←神奈川←静岡←神奈川←東京
2008年11月22日

 房総半島最南端の野島崎を出発すると鴨川を通り、国道126号で勝浦へ。その途中、鵜原に立ち寄った。鵜原海岸の砂浜に立ち、鵜原漁港の岸壁でアドレスを止めた。ここでは「30代編日本一周」のときに野宿している。
 なつかしい。
 猛烈になつかしい。
 涙が出てくるほどなつかしい鵜原だ。

17歳の夏の日
 ぼくが初めて世界に飛び出そうと思ったのは、ある日、突然のことだった。
 1965年(昭和40年)、17歳の高校3年の夏休みに、親友の前野幹夫君、横山久夫君、新田泰久君らと、
「おもいっきり、泳ごうゼ!」
 と、東京から房総半島の太平洋岸、外房の海に向かった。ぼくたちは都立大泉高校で一緒だったが、おもしろいことにクラスが一緒だったのは1年生のときだけ。不思議と気が合ったのだ。
 ぼくたちが目指したのは鵜原海岸。一人一人が思い思いにテントや食料を持ち、キャンプをしながら泳ぐつもりでいた。その日は、真夏の太陽がギラギラ照りつける、とびきり暑い日だった。外房線に乗ったのだが、東京から千葉まで切れ目なくつづく市街地を抜け出し、広々とした水田風景が車窓に開けてきたとき、心の中がサーッと洗われるような思いがした。
「広いなあ!」
 胸の中に溜まっていた重苦しいものから一時的にでも解き放たれたからだろう、思わずぼくの口からそんな言葉が飛び出した。
「広いなあ!」というこの一言が、ぼくの運命を大きく変えた。この30年間にわたり、世界を駆けめぐってきたすべての原点が、ここにある、といっても過言ではない。
「広いって、いいなあー」
「狭っくるしいところは、もう、たくさんだ」
「俺たち、もっと、もっと、自由でなくてはいけないよな」
「そうさ、自由さ。もっと、もっと自由でなくてはいけないよ」
 高校3年の夏休みというと、翌春にひかえた大学入試のため、寝る時間を削ってでも受験勉強をしなくてはならなかった。
 とくにぼくたちの世代、昭和22年生まれというのは戦後のベビーブームで大量生産(!?)された団塊の世代のはしりなのだ。ベルトコンベアに乗せられて続々とつくられていく工業製品と同じで、それだから、まわりからは受験が大変だといわれつづけて大きくなった。
 小学校では校舎が足りなくて、午前と午後の2部授業だった。午前の授業と午後の授業を間違えて学校に行き、「今ごろ何しにきたのだ」と先生には怒鳴られ、友達からは嘲笑されたこともあった。中学、高校を通してひとクラスが50人を超え、教室はギュウギュウ詰めの満員電車のようなものだった。
「受験戦争」などという流行語が生まれたのもぼくたちの世代のころ。それだけに、目には見えない重圧に押しつぶされてしまいそうな環境にぼくたちはいた。しかしそれに対しての、猛烈な反発心もあった。
「冗談じゃないゼ。絶対に流されるものか!」
 ぼくは中学、高校とサッカーをやった。授業をさぼってでも、放課後のサッカーの練習だけには行った。それほど好きなサッカーだったが、高校3年生になる前にやめてしまった。学校の成績がどん底にまで落ち、もうこのままでは浪人しないことには大学に入れないと自分自身でわかったからだ。大学に入ってあれをしたいとか、これをしたいとか、また、卒業したら何になりたいといった希望はまったくなかったが、ただひとつ、浪人だけはしたくなかったのだ。一日も早く社会に飛び出していきたかった。
 受験勉強がはじまった。あさましいとしかいいようのない受験勉強だった。そのため試験の点数だけは、あっというまに上がっていった。それとともに、自分でもよくわからないいらだたしさ、むなしさを強く感じるようになっていった。
「なんで、こんなことをしているのだろう」
「あー、サッカーをやめたのが、間違っていたのではないか」
 机を並べている友人を一人でも追い抜いていくような受験勉強、その積み重ねの上に出てくる明日の自分の姿。ぼくはある日、急ブレーキをかけるようにして立ち止まってしまった。それは「すべが見えてしまった!」からだった。
 逃げたくても逃げることのできないレールに乗せられてしまった自分自身の姿が、あまりにも強烈に、あまりにも鮮明に見えてしまったのだ。それは一度落ち込んだら、二度と這いだすことのできない蟻地獄のようにも見えた。
「これではいけない! 絶対にいけない!!!」
 と、ぼくは大声で叫びたかった。
「人間なら誰しもが持っている無限の可能性、それはきっと自分にも与えられているはずだ」
 と、信じたかった。
 ところが、未来への可能性などどこかに吹き飛んでしまい、ただ黙々と敷かれたレールの上を進んでいくしかない明日、何かしたくてたまらないのに何もできない自分、そんな“見えてしまった明日”、“見えてしまった自分”が、ぼくを飛び上がらせたのだ。

アフリカ大陸縦断計画
 外房線の車中での「広いなあ!」の一言に端を発したぼくたちの会話はさらに広がり、いつも冗談をいってはみんなを笑わせる前野が、
「オイ、いくら広いといっても、アフリカなんか、こんなものじゃないぞ」
 と、さもさも見てきたかのような口ぶりでいう。
「俺、アフリカに行ってみたいなあ」
 と、前野は今度は冗談とも本気ともつかないような口調でそういった。
 前野の口から出た“アフリカ”が、ぼくの胸をギュッとつかんだ。アフリカと聞いた瞬間に、映画や写真で見たことのある大自然が、稲妻のように頭の中を駆けめぐった。はてしなく広がる大草原、昼なお暗い大密林、灼熱の太陽に焼きつくされた大砂漠‥‥といったアフリカの風景が、カラースライドでも見るかのように、次々と鮮明にまぶたに浮かんでいった。それは、もう、どうしても自分自身のものでなくてはならないように思えてきたのだ。
「アフリカか‥‥。アフリカ。いいなあ」
「行けないことなんて、ないよな」
「行けるさ。足があれば」
「そうさ、意思があれば。男ならば」
 そのような会話をかわしているうちに、どうしてもアフリカに行きたくなった。
 日本を飛び出し、広い世界をおもいっきり駆けまわりたくなった。
「よーし、アフリカに行こう。なー、俺たちアフリカに行こうじゃないか」
 ぼくたちは、しょっちゅう、冗談をいう。まるで、ほんとうのことのように冗談をいいあう。だが、そのときは、そうではなかった。誰もが冗談っぽい話の中に、本気の部分を強く感じていた。
 外房海岸の鵜原でキャンプしている間も、帰りの外房線の列車の中でも、ぼくたちは何度となく“アフリカ”を話した。いつしかバイクでアフリカを走ろうということになっていった。バイクでアフリカを走るという発想は、ごく自然なものだった。ぼくだけではなく、前野にしても新田にしても、バイクが大好きだった。横山は免許を持っていなかったが、取らせればいいということになった。
 鵜原海岸から帰ると、ぼくの頭の中は「アフリカ」でいっぱいになった。
 夏休みが終わり、2学期がはじまると、ぼくたち4人は西武池袋線の大泉学園駅前の喫茶店「カトレア」に集まった。ここで夏休みの間中考えていたおのおのの案をぶつけあった。それら各自の案を3時間も4時間もかけてまとめたのが、次のようなものだった。

1、 アフリカ大陸南端のケープタウンを出発点にし、東アフリカを経由し、北アフリカ・地中海岸のアレキサンドリアをゴールにするアフリカ大陸縦断コースを走ることとする。
1、 アレキサンドリアからは北アフリカの地中海沿いに走り、モロッコをアフリカの最終地点とする。
1、 モロッコからジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入り、西アジアの国々を通り、インドから日本に帰ってくる。
1、 全コースをバイクで走破する。
1、 出発は3年後の春とし、出発後、2年間で計画を成しとげる。
1、 計画の資金は誰の援助も受けずに、すべてを自分たちでまかなう。
1、 大学入試を終えたらすぐに資金稼ぎのバイトをはじめる。
1、 計画を達成するためには体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞配達か牛乳配達をし、昼は別な仕事をして資金を稼ぐ。
1、 この計画を「アフリカ大陸縦断計画」と名づける。

 以上のことをまとめると、ぼくたち4人は計画の実現を誓い合い、喫茶店の名前をとって「カトレアの誓い」だと、ガッチリ握手をかわすのだった。

『世界を駆けるゾ! 20代編』フィールド出版刊より 一部改稿

 これが20歳のときに旅立った「アフリカ大陸縦断」のきっかけだ。ぼくはそれ以来、40数年間、世界を駆けめぐっているので、我が旅人生のすべてはこの外房の鵜原海岸から始まっているといっていい。

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鵜原海岸の砂浜
鵜原漁港


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