第56回 下関2
投稿日:2011年2月25日
2010年 林道日本一周・西日本編
下関駅に戻ると「唐戸市場」へ。「東京→鹿児島編」のときと同じように、「鹿児島→東京編」でも、ここで「すし」を食べていく。
大トロ、活アジ、ヒラマサ、エビを食べたが、これで1000円。前回と同じように、下関名物の「フグ汁」(500円)を飲みながら食べた。
「いやー、たまらん!」
長門の国の一宮、住吉神社を参拝
つづいて山陽新幹線の新下関駅近くにある長門国の一の宮、住吉神社を参拝。
下関の中心街からわずかな距離でしかないのに、ここには豊かな自然が残されている。境内林はまさに原始の森で、山口県では一番の自然の宝庫といっていい。これが一の宮のすごさなのである。
本殿と御神体をまつる本殿の玉殿は国宝だ。
山口県内にはそのほかの国宝建造物というと、同じ下関市の功山寺の仏殿、山口市の瑠璃光寺の五重塔があるだけだ。
住吉神社には第一殿から第五殿までの本殿がある。
第一殿には表筒男(うわつつお)神、中筒男(なかつつお)神、底筒男(そこつつお)神の住吉大神の「住吉三神」がまつられている。第二殿には応神(おうじん)天皇、第三殿には竹内宿祢(たけうちすくね)命、第四殿には神功(じんぐう)皇后、第五殿には建御名方(たけみなかた)命がまつられている。
日本の住吉神社
海の神として知られる住吉大神だが、摂津国の一の宮、住吉大社(大阪市住吉区住吉町)も住吉三神をまつっている。ここには第一から第四までの本宮があるが、そのうち第一本宮は底筒男神、第二本宮は中筒男神、第三本宮は表筒男神と、第三本宮までは住吉三神をまつっている。第四本宮の祭神は神功皇后だ。
筑前国の一の宮も住吉神社(福岡市博多区住吉)だ。ここには本殿と相殿があるが、本殿は住吉三神をまつり、相殿は天照大神と神功皇后をまつっている。
住吉三神をまつる住吉神社は日本全国に2129社あるとのことだが、筑前国一の宮の住吉神社がその最初なのだという。
歴史を顧みて、地名を見るとおもしろい
住吉神社の参拝を終えると、スズキDR-Z400Sを走らせ、国道2号を行く。長府トンネルを抜けると、そこは長府。山陽本線の長府駅周辺の長府の町をひとまわりする。ここは長門国(長州)の国府の地なので「長府」になる。
長府の町並みをまわりながら、あらためて「下関」を考えた。下関は長府になっていてもおかしくはなかった。
「下関」の地名というのはじつに興味深い。
ぼくが初めてそれに興味を持ったのは、日本観光文化研究所(観文研)時代で、先輩の工藤員功さんと一緒に山口県の山陰海岸を歩いたときのことだ。
北浦の二見という漁村では、おばあさんの話を聞いた。
おばあさんは娘時代の話をしてくれた。
「あの頃は女は12、13になると、奉公に行ったものでした。女中奉公ですよ。私も13のときに行きました。自分でいうのもおかしいのですが、それは一生懸命に働きましたよ。このあたりの娘はたいていバカンに行ったものです。小倉や博多に行った者もあります」
おばあさんのいう「バカン」がわからず、どこですかと聞いてみると、「下関ですよ」という。おばあさんにとっては下関は「バカン」なのだ。
穴門→臨門→長門関→赤間関( 馬関 関 )→下関
東京に帰ってから「バカン」を調べてみると、「馬関」と書くということを知った。
さらに関門海峡も、昭和17年に完成した鉄道海底トンネルが関門トンネルと名づけられる以前は、下関海峡あるいは馬関海峡が一般的であった。
明治22年に市町村制が発足した当時、下関は山口県では唯一の市で、市名は赤間関市だった。それが明治35年に下関市に改められ、現在に至っている。赤間の名は安徳天皇をまつる赤間神社や名産の赤間硯に残されている。
下関、赤間関、馬関、関。これら下関をあらわす地名がある時代、同時に用いられていたことが何ともおもしろいことではないか。
下関、赤間関は古くからの地名だが、馬関、関は比較的新しく、江戸時代になってからのことだという。
「赤間を赤馬に作り、馬関の号を見るは、元禄以後の詩人の発意にして、近年に至り、世間押しなめて馬関と呼ぶ」
と、明治期に編纂された地名辞典にはそう出ている。漢詩で「赤馬関」の文字が使われるようになり、それを略しての「馬関」であり、さらにそれを略しての「関」なのだという。
日本が統一される以前、下関あたりは海峡にちなんで「あなと」と呼ばれていた。それには「穴戸」とか「穴門」の字が当てられた。大化の改新後、長門国が誕生すると、国府は長府に置かれた。下関とは間に山ひとつをはさんで2里(約8キロ)といわれ、そのころの下関は「臨門(りんもん)」と呼ばれていた。海峡に面したところというほどの意味であろう。そこは山陽道の最終駅で、関が置かれた。
臨門の関は長門国でも最重要の関で、公式には長門国一番の関なので、長門関といわれた。しかし民間では赤間にある関なので赤間関と呼ばれていた。
しかし船乗りや海とのかかわりの深い人たちは、それを下関と呼んでいた。
長島(上関町)の竈戸(かまど)関を上関と呼んでいたので、それに対しての下関なのである。後にはその中間に中関(防府市)が置かれた。
さて、長府である。
古代長門国の国府であり、近世には毛利支藩の城下町の長府は、この一帯の政治の中心地。一方、関門海峡の港町として発展をつづけた下関は交通、商業の中心地。両者は2里という距離をおいて、古くからお互いに深い関係をもち続けてきたが、下関が長府に飲み込まれることはなく、下関の地名が長府に変ることもなかった。
山口は、長州と防州の2国からなる
長府から国道2号で小月、厚狭と通り、宇部市と山口市の市境を越える。この市境が長門(長州)と周防(防州)の国境になる。山口県というと、すぐに「長州」になるが、正確にいうと「防長(ぼうちょう)」の2州になる。鹿児島県が「薩摩」と「大隅」の2国なのにもかかわらず、「薩摩、薩摩」といわれるようなものだ。
周防の国府が防府。
防府の郊外を流れる佐波(さば)川河畔の玉祖(たまのおや)神社(山口)を参拝。この玉祖神社が周防国の一の宮になっている。
防府というと、町中の防府天満宮はよく知られているが、国道2号の防府バイパスのすぐ近くにある玉祖神社はあまり知られていない。祭神の玉祖(たまのおや)神は瓊瓊杵(ににぎ)尊に供した5神の1人で、日向に降臨したあと、この地を治めたということになっている。
長府は長門国の国府、防府は周防国の国府だが、そのほかの国府がらみの地名には甲斐国の国府の甲府がある。静岡も以前は駿河国の国府の駿府だった。
そのほか東京の府中(府中市)は武蔵の国府、大阪の府中(和泉市)は和泉国の国府、広島の府中は東(府中市)が備後国の国府、西(広島市)が安芸国の国府、香川の府中(坂出市)は讃岐国の国府と、それぞれ国府にちなんだ地名になる。そのほか府中は美濃国や伊賀国、丹後国にもある。
いやー、「長府」、「防府」では楽しませてもらった。
周防国の一の宮、玉祖神社の参拝を終えると、防府からは国道262号でゆるやかな峠を越え、県都、山口の町に入っていった。