白装束のバイク旅
2008年の「60代編日本一周・第1部」にひきつづき、2009年は「60代編日本一周・第2部」をまわっている。
その第1弾目は「巡礼編」。
125ccスクーターのスズキ・アドレスV125Gを走らせ、4月1日から6月20日までの76日間で「四国八十八ヵ所」、「西国三十三ヵ所」、「坂東三十三ヵ所」、「秩父三十四ヵ所」の札所をめぐった。その距離は16624キロになった。
「四国八十八ヵ所めぐり」では東京・日本橋を出発し、「東海道五十三次」を走り、京都から大阪、和歌山へ。和歌山からフェリーで徳島に渡り、第1番の霊山寺を皮切りに阿波→土佐→伊予→讃岐というルートで第88番の大窪寺までの八十八ヵ所をめぐった。
その間では今治から大島に渡り、「大島八十八ヵ所」をめぐった。さらに高松から小豆島に渡り、「小豆島八十八ヵ所」をまわった。
巡礼の装備一式は第1番の霊山寺でそろえた。
白装束をバイクのウエアの上に着、輪袈裟を首にかけ、諸々のモノが入った頭陀袋を肩にかけるという格好でアドレスに乗ったのだ。
白装束の背には「南無大師遍照金剛」とお大師さん(空海)の尊号(宝号)が墨書きされている。「同行二人」と書かれた頭陀袋の中には数珠と経本(般若心経)、線香、ローソク、納経札、納経帳、それと本尊の御影保存帳が入っている。頭陀袋には鈴をつけているのだが、そのチリーン、チリーンという音は心に響き、耳に残るものだった。
どのように巡礼するかというと、札所に着くとまずは山門で合掌する。見事な山門の札所が多いのが特徴。次に手洗いで手を清める。この手洗いも見事な水口のものが多い。鐘をつけるところでは鐘をつき、まずは本堂を参拝。線香とローソクをあげ、自分の名前を書いたお札を納め、賽銭(100円)を入れ、合掌したあと般若心経を上げるのだ。
その前には「をんさんまやさとばん」と3度、真言を唱え、般若心経を1巻あげると、本尊の真言をやはり3度、唱える。
たとえば本尊が釈迦如来像だとすると「のうまくさんまんだぼだなんばく」、弥勒菩薩像だと「おんまいたれいやそわか」、薬師如来像だと「おんころせんだりまとうぎそわか」といった具合だ。
これと同じことをお大師さんをまつる大師堂でもする。
本堂と大師堂での参拝を終えると、納経所に行き、納経帳に朱印をもらい、墨書きをしてもらう。本尊の御影(墨絵)を保存帳に差し込んでいく。
最初はたどたどしくあげていた般若心経も空海の修行の地、土佐に入ったころからは自分でいうのも何だが、上手に上げられるようになった。
第八十八番の大窪寺での参拝を終えると、第1番の霊山寺に戻り、お礼の参拝。そして徳島からフェリーで和歌山に戻り、最後に高野山を参拝。金剛峯寺と奥の院で納経をし、「四国八十八ヵ所めぐり」を終えるのだった。
その間ではじつに多くの人たちと出会った。
忘れられない言葉も数々あった。
第34番の種間寺近くの民宿「徳丸館」で泊まったときは50代の女性と一緒になった。ご主人を病気で亡くし、すっかり打ちひしがれていたとのことで、友人にすすめられるままにお遍路の旅に出たという。すると目に入るものすべてがうれしくなり、空を見ては笑い、川の流れを見ては笑い…で、ご主人を亡くして以来、初めて笑った自分を感じたという。
第46番の浄瑠璃寺前の旅館「長珍屋」では50代の男性と一緒に大広間で食事をした。その人は末期ガン。バリバリの会社人間だった。末期ガンを宣告され、余命いくばくもないとわかったときは目の前が真っ暗になったという。
それを機にお遍路の旅に出たのだが、すっかり変った自分を感じたという。遍路旅に出て「有難さ」がわかったのだ。食事の有難さ、人の親切の有難さ。
そのきわめつけは朝、起きたときだという。目が覚めたとき、「あー、自分はまだ生きている!」と心底、有難くなり、思わず手を合わせるようになった。この「有難い」という気持ちを持ったおかげで、「(寿命が)少し延びているようだ」といっていた。
「四国八十八ヵ所めぐり」を終えると、2度目、3度目とやりたくなるという。10度目ぐらいはザラ。ぼくが今回、出会った人では60回目という人が最高だったが、100回記念だとか150回記念、200回記念という石碑も見た。このあたりが「日本一周」と似ていなくもない。「日本一周」もまわり終えると、2度目、3度目とやりたくなるものだ。
アルバム
東海道を行く
舞坂宿の脇本陣
吉野川河口
第1番の霊山寺
第3番の金泉寺
お遍路さんたち
室戸岬の最御崎寺
足摺岬の金剛福寺
アドレスで行く
第45番の岩屋寺
この格好で巡った
瀬戸内海の夕日
第66番の雲辺寺へ
札所の道標
第73番の出釈迦寺
第81番の白峯寺
白峯展望台からの眺め
第85番の八栗寺へ
第88番の大窪寺に到着
高松から小豆島に渡る
高野山の大門
金剛峯寺の庭園
高野山の奥の院へ