環日本海ツーリング[16]
投稿日:2012年2月28日
弁慶の銅像も建つ弁慶岬は猛烈な風が吹く
茂津多海岸温泉の一軒宿、「モツタ海岸温泉旅館」の湯から上がると、スズキDR-Z400Sを走らせ、日本海沿いの国道229号を北上。島牧村の中心、泊を通り、寿都町に入り、日本海に突き出た弁慶岬でDRを停める。猛烈な風が吹きまくり、DRが倒れるのではないかと不安を感じたほどだ。
弁慶岬には弁慶の銅像が建っている。大男の弁慶は高下駄をはき、右手にはナギナタを持っている。
「弁慶」の語源はアイヌ語の「裂けたところ」を意味する「ペルケイ」だそうで、それに「弁慶」の字を当てた。岬の近くには「弁慶の土俵跡」が残されている。ここは弁慶が地元のアイヌ人たちと相撲をとった土俵の跡だという。弁慶のはいていた高下駄をまつる弁慶堂や弁慶が別れの宴を催したという二ツ森の丘もある。
津軽半島の三厩でもふれたことだが、義経・弁慶の主従は奥州・平泉の地で死んだのではなく、さらに北へ、北へと逃げたという。そんな「義経北行伝説」が各地に伝わっている。東北のみならず、北海道も「義経北行伝説」の地なのだ。
三厩から船で蝦夷の松前に渡ったという義経・弁慶の主従は、日高の平取(ここには義経神社がある)から日本海側に出た。そして雷電岬から船出し、積丹半島経由で樺太に渡り、間宮海峡を越え、黒竜江(アムール川)沿いにモンゴルに入ったという。
雷電岬には「刀掛岩」と呼ばれる大岩がある。義経主従がこの地で休憩したとき、弁慶の刀が大きすぎて置くことができず、「エイッ!」とばかりに岩をひねってつくったという刀掛けだ。また、弁慶が背負っていた薪を降ろしたという「薪積岩」もある。
「悲劇のヒーロー」の義経を守り抜いた弁慶の体力と気力を神業と信じ、弁慶を守護神としてあがめた習慣がこの地には色濃く残されている。