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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[164]

投稿日:2013年5月18日

毛利氏36万石の城下町

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 城下町の萩に到着。
 中国山地から流れてくる阿武川は、日本海に流れ出る手前で橋本川と松本川の2本の流れに分かれ、河口に三角州をつくる。その上にできたのが萩の町だ。2つの川に挟まれた「島」が川内(かわうち)と呼ばれ、萩の中心街になっている。
 川向こうは川外(かわそと)になる。
 萩でおもしろいのはJR山陰線の線路だ。鉄道は萩の町をまるで遠巻きにするかのように川外を走り、西からいうと玉江、萩、東萩と3駅あるが、どの駅も萩の中心街からは遠い。そのうち、東萩駅が萩の玄関口になっている。鉄道をつくるとき、町の中を通ることに強く反対した結果なのだろう。
 玉江から橋本川を渡って萩の三角洲に入り、その突端にそびえる指月山に行く。毛利氏36万石の萩城は海に突き出た指月山にあった。この山は椀をふせたような、どこからでも目につくような形をしている。萩城は指月山山麓の本丸、一の丸、二の丸と指月山山頂の詰の丸から成る平山城だった。城は明治になってから解体されたが、石垣だけはきれいに残っている。見事な石垣だ。かつては五層の天守閣がそびえ建っていた天守台の石垣上に登り、萩の歴史を振り返ってみるのだった。
 萩の歴史は毛利氏の歴史といっていい。このように萩といえば毛利氏になるが、「毛利」というのは薩摩の「島津」と同じで、西国の武将ではなく東国の武将である。相模の出身だ。
 毛利氏は戦国時代に西国に移り、大内氏の支配下に入った。大内氏が家臣の陶晴賢に討たれると、毛利元就は厳島に兵を挙げ、陶晴賢の大軍を打ち破った。弘治元年(1555年)のことである。毛利元就はその勢いで周辺の諸大名を次々に滅ぼし、中国地方の10ヵ国を支配する西国一の大名にのし上がった。
 元就の子供たちは早死にし、孫の輝元が毛利家を継ぎ、慶長5年(1600年)の天下分け目の関ヶ原の戦いでは西軍につき、敗れた。徳川家康は毛利氏の10ヵ国のうち、8ヵ国を取り上げ、周防と長門の防長2ヵ国に領土を減らした。
 輝元は最初は山陽側の防府に城を築きたかったが、それは認められず、それではと次に山口を願い出た。ところが家康はそれをも許さなかった。毛利氏に交通の便利な山陽側に城を築かれるのを恐れたのだろう。
 毛利は結局、日本海に面した辺鄙な萩に追いやられ、指月山に城を築くのである。関ヶ原の戦いから8年後の慶長13年(1608年)に萩城は完成した。こうして城下町萩の歴史がはじまった。
 防長2国のみの支配となった毛利氏の長州藩はすっかり日本史の表舞台からは消えた。
 しかし毛利氏の徳川に対する怨念は消えない。毎年元旦には家老が藩主の前に進み出て、「幕府追討の儀はいかがいたしましょう」と、うかがいをたてた。すると藩主は「いまだ、時機尚早である」とおもむろに答えるのを常とした。そんな儀式が輝元以来、連綿とつづいたという。
 長州藩最後の藩主は毛利敬親。敬親は家臣たちの話をよく聞く人で、何か納得すると「そうせい!」と大声を上げるものだから「そうせい公」と陰でいわれていた。敬親の時代の文久3年(1863年)、城は萩から山口に移された。毛利氏の長年の願いがかなったわけだが、それ以前にもっと現実的な理由があった。時代はすっかり変わり、海辺の萩城では外国艦隊の砲撃を受ける危険性がきわめて大きかったし、激動の幕末にあって、萩城では日本の中央まであまりにも遠く、交通が不便すぎたからだ。毛利が萩から山口に城を移しても、もう徳川幕府には、それを拒む力はなかった。
 このあと長州藩は薩摩藩と手を結び、260年以上もつづいた徳川幕府を一気に倒してしまう。それはまるで毛利氏の徳川氏に対する積年の積もり積もった怨念の爆発のようにも見える。
 ぼくは歴史の「もし」を考えるのが大好きだ。
 もし関ヶ原の戦い以降、徳川が毛利を山陰の辺鄙な萩に押し込めなかったら、明治維新はなかったかもしれない。
 もし毛利が関ヶ原の戦いで東軍についていたら、萩は長門海岸の誰も知らないような小寒村のままであったかもしれない。
 萩を出発すると、じきに日が暮れた。国道191号のナイトラン。須佐の国道沿いの店「山牛」で「焼肉定食」の夕食。肉はテーブル上のコンロで自分で焼く。熱々の焼肉はうまかった。
 県境を越えて島根県に入り、益田で国道9号に合流。このころから猛烈な睡魔に襲われる。浜田に着くと「ローソン」で「眠眼打破」を買って飲み、さらに江津、大田と走り、21時30分、出雲市駅に到着。駅前の「東横イン」に泊まった。1日の走行距離は久しぶりに400キロを超えた。アドレスよ、お疲れさま!

第34日目:小倉→出雲市
2008年11月3日
走行距離:412キロ(合計7,717キロ)
費用:
関門海峡フェリー 350円
カップヌードル 180円
唐戸市場の握りずし&ふぐ汁 1,550円
ガソリン 617円
長門の焼き鳥 980円
くじら資料館 200円
夕食 980円
眠眠打破 315円
ガソリン 469円
宿泊(朝食つき) 3,670円
おにぎり(2) 260円
合計 9,341円
総計 412,764円


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萩城址
須佐の「山牛」


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「山牛」の「焼肉定食」
出雲市駅前に到着!


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