阿蘇外輪山紀行
投稿日:2016年4月25日
このたびの熊本地震で亡くなられた方々のご冥福を心より祈っています。被災された大勢のみなさまには心よりお見舞いを申しあげます。地震が一刻も早くおさまり、一日も早く本格的な復興が始まるように願っています。(賀曽利隆)
「熊本地震」での震度7の揺れは強烈。崩壊した阿蘇神社の楼門や阿蘇外輪山の割れ目、立野での大崩落は信じられないような光景だ。国道325号の阿蘇大橋も落ちた。このエリアは昨年(2015年)の7月、『大人のバイク旅』(八重洲出版)の取材でまわった。編集長の佐々木さんとカメラマンの平島さんが同行してくれたのだが、その時の「阿蘇外輪山紀行」を番外編としてお伝えしよう。今回の熊本地震で大きな被害を受けた「阿蘇」がどのような世界なのか、すこしでもわかってもらえれば幸いだ。
北阿蘇の外輪山を越えて、肥後の一宮の阿蘇神社へ
神戸からフェリー「さんふらわあ・ごーるど」に乗船し、大分に渡った。さー、「阿蘇外輪山紀行」の開始だ。カソリはスズキのV−ストローム650XT、編集長の佐々木さんはKTM1190アドベンチャーを走らせ、大分自動車道経由で水分峠へ。水分峠からは、やまなみハイウェイを南下し、阿蘇へと向かっていく。
牧の戸峠(1320m)を越えて大分県から熊本県に入り、瀬の本高原から阿蘇の外輪山へと2台のバイクを走らせる。ゆるやかなアップダウンが続き、どこが峠なのかわからないうちに北阿蘇の外輪山を越えていた。
城山展望台で2台のバイクを止めると、目の前には阿蘇の大カルデラが広がっている。東西25キロ、南北18キロの阿蘇カルデラは世界最大級。雄大な風景を一望し、思わず「おー、阿蘇だ〜!」と声が出た。
正面には根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の「阿蘇五岳」が連なっている。阿蘇五岳は二重式火山、阿蘇山の中央火口丘になる。高岳(1592m)が最高峰で、中岳からは噴煙が上がっている。山裾には一の宮(阿蘇市)の町並み。カルデラ内には一面、青々とした水田地帯が広がっている。
海外ツーリングでは何度となく、阿蘇の話をしたことがある。そんなシーンが思い出されてくる。日本が火山国であり、地震国であることを知っている人は多い。
「ボルケイノ(火山)の中を列車が走り、ナショナルハイウェー(国道)が通っている。ボルケイノの中にはいくつもの町や村があって、大勢の人たちが住んでいるんだ」
と阿蘇の話をすると、誰もが決まって、「信じられない」という顔をする。それなのに日本人は、誰一人として不思議に思わない。そのあたりがじつに面白いではないか。
北阿蘇外輪山の城山展望台からカルデラ内に下る。一の宮の町に入ると阿蘇神社へ。地名からもわかるように、ここは肥後の一宮。まずはふんだんに湧き出ている門前の「神の泉」を飲む。昔からの不老長寿の名水。そして鹿島神宮、筥崎宮と並ぶ「日本三大楼門」の壮大な楼門をくぐり抜ける。阿蘇神社の楼門は迫力満点だ。拝殿も堂々とした造り。本殿は「一の神殿」から「十二の神殿」までの十二宮から成っているが、そのうちの一の神殿に主祭神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)がまつられている。阿蘇を開いた伝説の神、健磐龍命は初代天皇、神武天皇の孫になる。阿蘇神社の御神体は噴煙を上げる阿蘇山だ。
阿蘇神社の参拝を終えると門前を歩いた。趣のある家並み。あちこちで泉が湧き出ている。冷たい泉で冷やしたトマトをまるかじりしたが、赤く熟れたトマトと湧き水のうまさには、もう大満足だ。
阿蘇の大雲海に太古の阿蘇湖を想う!
ひと晩泊まった内牧温泉の温泉宿「大阿蘇」を夜明け前に出発し、南阿蘇外輪山の絶景峠、俵山峠で夜明けを迎えた。目の前には阿蘇五岳の黒々とした山並みが横たわっている。山裾にはポツン、ポツンとまだ明かりが残っている。外輪山の向こうには祖母傾の山々。やがて朝日が昇る。阿蘇五岳は昇ったばかりの朝日を浴びてパーッと金色に光り輝く。神々しいほどの眺めだ。その光景を目の底に残し、今度は阿蘇登山道路で中央火口丘の阿蘇五岳を登っていく。火の山トンネルを抜けると、噴煙を上げる中岳を間近に見る。噴煙は雲と見間違えるかのような白煙だった。
阿蘇の噴煙は何度か見ているが、我が「40代編日本一周」(1989年)の時の噴煙はすごかった。阿蘇神社奥宮の阿蘇山上神社まで登ったが、まるで石油タンクが爆発したかのような黒煙を噴き上げていた。そこから中岳の火口にはロープウェーが出ているし、登山道もあるがすべてストップ。その先は「立入禁止」になっていた。それを無視して2人の外国人旅行者が火口へと登っていった。ぼくもいったんは「行こう!」と思ったのだが、どうしても足が前に出なかった。「立入禁止」を無視するのがいやだったからではなく、噴煙があまりにもすさまじかったからだ。今、この瞬間に「ドカーン!」という大音響とともに、阿蘇山が大爆発を起こしそうな恐怖感にかられた。それにしても、とてつもない火山灰の降り方だった。ザラザラ音をたてて降ってくる。ぼくの体もバイクも火山灰まみれ。口の中が火山灰でジャリジャリしてくるほどだった。そんな思い出が蘇ってくる。
草千里を走り抜け、米塚を目の前にする北阿蘇側に出ると、風景は劇的に変わった。南阿蘇にはまったく雲海はなかったのに、北阿蘇は一面の雲海に覆われている。その雲海の上に米塚が浮かんでいる。まるでカルデラ湖に浮かぶ島のようだ。その光景は太古の昔の一大カルデラ湖、阿蘇湖を連想させるものだった。我々は2台のバイクを止めると、まるで金縛りにあったかのように北阿蘇の雲海に見入るのだった。
この時ぼくの脳裏をかすめていったのは、北海道の美幌峠から一望する日本最大のカルデラ湖、屈斜路湖の風景。屈斜路湖をとりまく屈斜路カルデラが目に浮かんでくるのだった。東北の発荷峠から見下ろす十和田カルデラの十和田湖も目に浮かんだ。阿蘇山は立野で外輪山に割れ目が入り、湖水が流れ出た。そのおかげでカルデラ内は、今では肥沃な水田地帯になり、町や村ができている。もし立野で外輪山に割れ目ができなかったら、阿蘇は屈斜路湖や十和田湖と同じように、満々と水をたたえた大カルデラ湖の阿蘇湖だった。それを思い知らされた阿蘇の雲海だ。
阿蘇のキーポイント、立野を見てまわる
阿蘇山上から阿蘇外輪山の割れ目の立野に行った。我々は割れ目の中にある立野駅でバイクを止めた。ここはすごいところだ。鉄道も国道も割れ目を抜け出て熊本平野へと下っていく。
阿蘇神社の案内板には「古い昔の事ですが、この阿蘇谷は満々と水をたたえた湖水でありました。阿蘇大神の健磐龍命は湖水の水を切って落とし、美田を開き、農耕の道を教え、国土の開拓に尽くされました」と書かれている。その案内板どおりで、大古の昔の阿蘇は大カルデラ湖の阿蘇湖だった。その阿蘇湖の水は阿蘇外輪山の一番弱いところを突き破って流れ出た。その地点が立野なのである。健磐龍命伝説では最初は阿蘇外輪山の二重ノ峠あたりを蹴破り、湖水を流し、肥沃な農地に変えようとした。それが失敗に終わり、次に立野にねらいを定めた。
熊本と大分を結ぶJR豊肥本線は立野駅を出ると、スイッチバックで阿蘇カルデラを登っていく。立野駅は標高277メートル、次の赤水駅は標高465メートルなので、188メートルの標高差を登っていくことになる。立野駅から阿蘇神社のある宮地駅まで、JR豊肥本線には全部で7つの阿蘇カルデラ内の駅がある。さらに立野駅からは、南阿蘇の高森まで南阿蘇鉄道が出ている。
立野駅を出発点にして「立野探訪」の開始する。阿蘇外輪山の割れ目を見てまわるのだ。まずは数鹿流ヶ滝へ。国道57号と分岐する国道325号の阿蘇大橋の上から眺めたあと、国道57号沿いの駐車場にバイクを止め、小道を歩いて正面から眺めた。高さ60メートルの数鹿流ヶ滝は北阿蘇を流れる黒川の滝。次に南阿蘇を流れる白川と黒川の合流点を見に行く。黒川にかかる阿蘇長陽大橋が絶好の展望ポイント。黒川が白川に直角にぶつかって合流しているのがよくわかる。下をのぞき込むと、目のくらむような大峡谷。最後に白川にかかる高さ40メートルの鮎返しの滝を見に行く。切り立った断崖を流れ落ちる滝を対岸から眺めた。数鹿流ヶ滝、鮎返しの滝の2つの滝は、まさに阿蘇外輪山の割れ目そのものなのである。
「立野探訪」を終えると南阿蘇を行き、「白川水源」を見る。毎分60トンという膨大な水量の湧き水。周辺にはほかにも、いくつもの湧水群がある。白川は阿蘇五岳の一番東の山、根子岳(1408m)を源にしているが、白川水源などの湧水を集めて一気に大きな流れとなり、立野の阿蘇外輪山の割れ目で黒川を合わせ、熊本平野から島原湾へと流れ出る。下流には三角州をつくっているが、下流域の広大な三角州の灌漑開発には加藤清正が大きくかかわった。肥後人は今でも戦国武将の加藤清正が大好きで、清正などと呼び捨てにはしないで「清正公」という。熊本と命名したのも清正だ。
阿蘇の外輪山を越えて東洋のナイアガラへ!
阿蘇神社のある宮地から国道57号で大分県の原尻の滝に向かった。急カーブが連続する東阿蘇外輪山の峠、滝室坂を越えたが、ここでおもしろいことに気がついた。一般的な例でいうと、この峠が肥後と豊後の国境になっておかしくない。ところが峠道を下っても、なかなか大分県には入らない。10キロ近くを走ってやっと大分県に入ったのだ。これは何も滝室坂に限ったことではない。南阿蘇外輪山の高森峠も同様で、本来ならば肥後と日向の国境になっておかしくないのに、峠を貫くトンネルを抜けてもやはり熊本県。さらに10キロ以上、峠道を下ってやっと宮崎県に入った。
これは何を意味するのだろうか…。
肥後・豊後、肥後・日向の国境線は相当に古いと思われる。肥後は「火国(ひのくに)」が肥前、肥後に分かれてできた国だが、おそらく2国に分国する以前からの国境線であろう。分水嶺が国境線にならないで、それをはるかに越えたラインが国境線になっているのは、火国の強さを物語っている。その火国の象徴が阿蘇山であり、阿蘇山を御神体にしている阿蘇神社なのだ。
今の熊本県は「一国一県」。肥後国の全部が熊本県になっている。熊本県のまとまりの良さ、熊本県民の結びつきの強さはここから来ているとぼくは思っている。このような一国一県の例はそれほど多くはない。最強の一国一県だと思われていた長野県も一部が岐阜県になり、今では信濃国=長野県ではない。
話はそれたが、国道57号で大分県に入るとそこは竹田市。後を振り返ってみても、もう阿蘇山は見えない。竹田の町には「荒城の月」で知られる岡城址がある。見事な石垣が残り、往時の面影を偲ばせている。石垣の上に立つと、祖母傾の山並みや九重連山が見渡せる。竹田の町並みを走り抜け、国道502号経由で原尻の滝へ。緒方川にかかる幅120メートル、高さ20メートルの大滝は「東洋のナイアガラ」とも称される。滝の上をバイクで走っていけるのがすごくいい。突き当りにはこんもりとした森に囲まれた二の宮社がある。
原尻の滝の起源は、9万年前の阿蘇山の大噴火とおおいに関係があるという。この大噴火で発生した火砕流は九州全土を覆うほどのもので、この地にも、何十メートルもの厚さで積もった。それが徐々に冷え固まり、阿蘇溶結凝灰岩と呼ばれる岩石になる時、縦方向の割れ目(柱状節理)が同時にできた。柱を束ねたような状態で立っている大地に川の水が流れ込み、次々に柱を押し倒し、原尻の滝がつくられたのだという。
9万年前の阿蘇大噴火で世界は大きく変わった
阿蘇外輪山紀行の最後は、北阿蘇外輪山の峠越え。出発点は阿蘇神社に近いJR豊肥本線の宮地駅前だ。カソリのV−ストローム650と佐々木さんのKTM1190アドベンチャーのエンジン音を響かせ、外輪山のクネクネと曲がりくねった道を登っていく。城山の展望台を過ぎたところが峠。その峠を越えてもさらに上り下りが連続し、反対方向から来ると、峠を見極めるのは極めて難しい。当然のことだが、この城山展望台の上の峠には名前がついていない。
次にミルクロードを行く。この道は阿蘇北外輪山のほぼ稜線に沿って走っている。大観峰の展望台に立ったあと、国道212号と交差する地点に出る。ここも北阿蘇外輪山の峠なのだが、峠名はついていない。阿蘇カルデラ内からの登りはまさに「峠道」なのだが、峠を越えたとたんにゆるやかに波打つ高原に変わってしまうからだ。高原の向こうには九重連山の山並みが見えている。
このように阿蘇の外輪山といっても、東西南北ではずいぶんと違いがある。南阿蘇外輪山にはいくつもの峠があるが、北阿蘇外輪山には峠名のついた峠は皆無。東阿蘇外輪山には箱石峠と大戸ノ口峠、西阿蘇外輪山には二重ノ峠がある。さらにもうひとつ、高岳と根子岳の間には日ノ尾峠がある。
編集長の佐々木さんは同じ阿蘇の外輪山といっても、このような違いがあることに興味を持ち、いろいろと調べてくれていた。それは原尻の滝の項でもふれた約9万年前の阿蘇の大噴火がおおいに関係しているのだという。
「カソリさん、北阿蘇外輪山の外側の地形がなだらかなのは、約9万年前の噴火時に発生した超巨大火砕流のためなんですよ」
それは信じられないような超巨大火砕流で、これが主に北に向かって流れたという。
「九重連山の麓の谷などはすべて埋め尽くされ、外輪山北側のフラットな高原大地が形成されたそうです。その先端は海を越えて山口県あたりまで到達したようです。南側は少なくって、人吉盆地のあたりまでだそうですよ」
熱をこめて語ってくれた佐々木さんの一言一言は、阿蘇の持っているとてつもないパワーを実感させるものだった。
「阿蘇がどうぞ鎮まりますように!」
火国の人たちが健磐龍命にすがり、阿蘇神社に祈る気持ちがこの時、理解できた。
我が「30代編日本一周」(1978年)の時には、阿蘇山の中岳火口の縁まで行けた。パックリと大きく口をあけた火口の奥底深くには紅蓮の炎が見えた。それはまるで地球が大きく息を吸っているかのようにも見え、「おー、地球が生きてる!」と、思わず声を上げたほど。佐々木さんの超巨大火砕流の話を聞きながら、ぼくは40年前の生きている阿蘇の姿、生きている地球の姿を思い返すのだった。