奥の細道紀行[73]
投稿日:2016年12月13日
加賀最後の地
山中温泉から小松に戻ってきた芭蕉だが、その理由は曽良の「随行日記」にもあるように、加賀藩士の生駒万兵衛重信(俳号は万子)に会うためだった。再度、小松を出発した芭蕉は北枝とともに北国街道を南下し、加賀市の中心の大聖寺へ。
大聖寺では全昌寺という寺で泊っている。
大聖寺の城外、全昌寺という寺に泊まる。なお加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊まりて、
よもすがら秋風聞くや裏の山
と残す。一夜の隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮に臥せば、あけぼのの空近う、読経声澄むままに、鐘板鳴りて食堂に入る。今日は越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかかえ、階の下まで追ひ来る。をりふし庭中の柳散れば、
庭掃きて出でばや寺に散る柳
とりあへぬさまして、草鞋ながら書き捨つ。
江戸から山中温泉までずっと一緒だった曽良と別れたこともあり、芭蕉の「一夜の隔て、千里に同じ」は胸に迫るものがある。曽良は前の晩、この全昌寺に泊った。
さてカソリも小松から大聖寺へ。スズキST250を走らせ、芭蕉の足跡を追っていく。小松の駅前を出発し、北国街道を行く。月津宿を通って動橋宿へ。ここまでは「小松→山中温泉」のときと同じルート。動橋宿からは作見、敷地と通り、菅生石部神社前を通り、大聖寺の中心街に入っていく。
大聖寺には大聖寺城があった。その城跡に行ってみる。南北朝時代から江戸時代初期までの平山城で、別名錦城。城跡は今、錦城山公園になっている。
その近くには「深田久弥 山の文化館」がある。深田久弥(1903〜1971年)といえば『日本百名山』でよく知られているが、ここ、大聖寺で生まれた。
大聖寺城址から全昌寺へ。芭蕉と曽良がひと晩、泊った寺だ。
本堂を参拝したあと、ズラズラズラッと並ぶ五百羅漢像を見た。壮観な眺め。ここには芭蕉の木像もまつられている。全昌寺の境内には「芭蕉塚」と「曽良句碑」がある。
「芭蕉塚」の石塔の正面には「者勢越(はせお)塚」、側面には「庭掃きて出でばや寺に散る柳」の句が彫り刻まれている。なお、「はせお」というのは芭蕉の古称だ。「曽良句碑」には「よもすがら秋風聞くや裏の山」の句が彫り刻まれている。
芭蕉にとって大聖寺は「奥の細道」の加賀最後の地。ここから加賀・越前国境の吉崎に向かっていく。曽良は芭蕉よりもひと足先に吉崎へ。そして越前に入った。芭蕉の足跡を追うカソリも国道305号で越前国境へとST250を走らせるのだった。