奥の細道紀行[74]
投稿日:2016年12月15日
越前路に入る
大聖寺の全昌寺を後にし、国道305号で石川・福井県境の吉崎へ。その間は6キロ。吉崎の集落は石川・福井の両県にまたがっている。加賀・越前国境の集落だ。ここには蓮如によって開かれた吉崎御坊がある。吉崎は吉崎御坊の寺内町である。
富山・石川・福井の北陸3県は日本一の真宗(浄土真宗)地帯。バイクで通り過ぎていく集落内でひときわ大きな建物が目につくと、それはまず間違いなく真宗の寺である。
浄土真宗の開祖は親鸞だが、これを日本最大の教団につくり上げていったのは蓮如(1415〜1499年)といっていい。蓮如は吉崎御坊を拠点にして北陸一帯を教化した。それはまるで燎原の野火のようで、「真宗」という燃え盛る炎はあっというまに北陸一帯に広まった。というよりも焼き尽くしたといった方がぴったりの激しさだった。
かつては華やかな歴史の表舞台に立った吉崎だが、今ではひっそりと静まりかえっている。そのような吉崎の町並みをスズキST250で走り抜けていく。「奥の細道」もここより加賀路から越前路になる。
芭蕉は吉崎では見たいものがあった。それは西行が詠った名木「汐越の松」である。
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。
よもすがら嵐に波を運ばせて
月を垂れたる汐越の松 西行
この一首にて数景尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。
芭蕉は遊行僧の西行(1118〜1190年)をまるで師のように仰いでいた。この「汐越の松」にしても、西行が詠った名木ということで見に行ったのだ。芭蕉にとって西行は400年以上も昔の人物。そのような歴史上の人物に大きな影響を受けたということに感動してしまう。
芭蕉は吉崎からは金津を通り、丸岡の城下町に入っている。
カソリも吉崎から丸岡へと、芭蕉の足跡を追ってST250を走らせる。
まずは汐越の松。この松の木は日本海に面した砂丘上にあったとのことで、その碑が立っているらしい。だが、残念ながら見つけられなかった…。
吉崎に戻ると吉崎御坊跡を歩き、本堂跡、蓮如の腰掛石、蓮如像などを見てまわった。そして北潟へ。芭蕉は蓮ヶ浦に渡し舟で渡っているのだが、カソリは北国街道の県道29号で細呂木宿を通り蓮ヶ浦まで行く。そこからは千束の一里塚を見て金津宿に入っていく。金津はあわら市の中心。金津から県道9号で丸岡へ。芭蕉が一泊した丸岡では、日本最古の天守閣が残る丸岡城を見た。
大聖寺から丸岡までは曽良がひと足先に行っているが、そのルートは芭蕉が通ったものと同じなので、ここでは曽良の「随行日記」を紹介しよう。
七日 | 快晴。辰ノ中刻、全昌寺ヲ立。立花十町程過テ茶や有。ハヅレヨリ吉崎ヘ半道計、一村分テ、加賀・越前領有。加賀ノ方ヨリハ舟不出。越前領ニテ舟カリ、向ヘ渡ル。水五・六丁向、三国見ユル。越前領也。下リニハ手形ナクテハ不越。コレヨリ塩越、半道斗。又、此村ハズレ迄帰テ、北潟ト云所ヘ出。壱リ斗也。北潟ヨリ渡シ越テ壱リ余、金津ニ至ル。三国ヘ二リ余。申ノ下刻、森岡ニ着。六良兵衛ト云者ニ宿ス。 |
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ここで立花とあるのは橘のことで、国道305号沿いの三木町内の地名。かつては橘宿として栄え、何軒かの茶屋が軒を並べていたという。吉崎は曽良も「一村分テ、加賀・越前領有」といってるように、昔から加賀・越前の両国にまたがっていた。
国境越えでひとつ興味深いのは、曽良が「下リには手形ナクテハ不越」とあるように、加賀に入るときはフリーパス同然なのに、出るときは通行手形がないと出られないということ。これは今の時代とは逆といっていい。通行手形というのはパスポートのようなものだが、世界中、どこでも入国のときは厳しく調べられ、出国のときはフリーパス同然というケースが多い。最後の「森岡ニ着」とある森岡は丸岡のことである。