奥の細道紀行[79]
投稿日:2016年12月25日
敦賀半島最北端へ
芭蕉は敦賀から「奥の細道」のゴール、大垣に向かう前に、敦賀半島の突端に近い「種の浜」に行っている。今の色浜だ。ここは芭蕉が心から慕った西行の歌、
汐染むる ますほの小貝 ひろふとて
色の浜とは いふにやあるらん
の舞台なのである。
芭蕉は西行の世界に浸りたくて種の浜に行った。福井から同行している洞哉(等栽)も種の浜には一緒に行っている。
十六日、空はれたれば、ますほの小貝拾わんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某という者、破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、僕あまた舟にとり乗せて、追ひ風、時の間に吹き着きぬ。浜はわずかなる海士の小家にて、侘しき法華寺あり。ここに茶を飲み、酒を暖めて、夕暮れの寂しさ、感に堪えたり。
寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋
波の間や 小貝にまじる 萩の塵
その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。
芭蕉は8月16日(今の暦では9月29日)に種の浜に向かった。その日は晴天。当時の敦賀半島は陸の孤島のようなところで、道もない。そこで敦賀港から舟で種の浜に渡った。「天屋何某」とあるように、敦賀の廻船問屋、天屋五郎右衛門の舟に乗った。天屋は自らが芭蕉を案内し、舟には「破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて」とあるように、酒やご馳走を用意した。
舟は追い風にも恵まれて、あっというまに種の浜に着いた。
「浜はわずかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法華寺あり」とあるように、ここは昔も今も小さな漁村。現在の戸数は12戸で、それは芭蕉の時代と変らない。「海士」とあるように、当時は海士漁が盛んにおこなわれていた。「あま漁」というと女性の海女漁が今では有名になっているが、本来は男性の海士漁の方が日本各地でより一般的だった。
侘しき法華寺というのは本隆寺のことで、境内には「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」の芭蕉の句碑が建っている。
芭蕉は本隆寺でひと晩泊まり、翌日敦賀に戻っていくのだが、
「その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す」とあるように、洞哉(等栽)直筆の書がこの寺に残されている。
「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」
これは洞哉の書に書き添えられた芭蕉の句だという。
それにしてもすごいのは300年以上もの年月を越えて、その時の歴史がこの小さな寺に残っていることだ。本隆寺の境内にはもう1句、「衣着て 小貝拾わん いろの月」の芭蕉句碑も建っている。
芭蕉の足跡を追って敦賀を出発。「日本三大松原」のひとつ、気比の松原を歩いたあと、スズキST250を走らせ、敦賀湾沿いの道で敦賀半島に入っていく。敦賀湾は穏やかで波ひとつない。
「奥の細道」最西端の地の色浜に着くと、まずは色浜漁港へ。桟橋にはイカ釣りの漁船が停まっていた。芭蕉はこの港に敦賀の廻船問屋、天屋の舟でやってきたのだ。次に漁港近くの本隆寺に行き、境内の2つの芭蕉句碑を見た。
色浜からはさらに北へ。我らライダーは最果ての地を好む。敦賀原子力発電所の前を通り、立石漁港へ。ここで敦賀半島の道は行止まりになる。敦賀から20キロの地点だ。
漁港の片隅にST250を停めると、敦賀半島最北端、立石岬の灯台まで歩いていく。
高さ100メートルほどの山上にあるので、かなりきつい登り。息せき切って山道を登りつめ、最後は石段を駆け上がって灯台に到着。古びた石造りの白い灯台には「1881年7月20日初点灯」と英文で書かれていた。