カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

環日本海ツーリング[73]

投稿日:2012年5月24日

午後2時が夕方、そして翌朝2時へと出港が伸びた

「ホルムスク探訪」を終えてホルムスク駅に戻ってきた。するとロシア本土のワニノ港に向かうフェリーの出港はさらに遅れ、夜になるという。
 時刻表などあってなきがごとしなので、出港時間はあてにならないと覚悟していたが、ここは日本とはあまりにも違う世界。最初は午後2時頃の出港だと聞いていたが、それが夕方になり夜になった。ほんとうに夜に出るか、それも疑問だ。
 我々は急きょ、フェリー埠頭近くの「ホルムスクホテル」に入った。
 ホテルの駐車場にバイクを停めると、歩いて船会社に行く。そこでは10枚近い書類に1人づつサインをする。大仕事になった。

ホルムスクホテル
ホルムスクホテル前の道


船会社でバイクの手続き
船会社の窓から見る港湾施設


フェリー埠頭への入口
フェリー埠頭入口の古びた建物


 それを終えるとホルムスク駅のカフェで夕食。オランダ製ビールで乾杯。そのあとスープとライスボール&チキンの夕食を食べた。
 ホルムスク駅からは夕暮れのホルムスク港を見ようと、目抜き通りのソビエツカヤ通りを歩く。大通りに面してホルムスク郵便局がある。ここが稚内の「九人の乙女の碑」の舞台になった真岡郵便電信局跡。昭和20年(1945年)8月20日、真岡は旧ソ連軍の猛攻を受けた。戦火の中、最後まで真岡郵便電信局を死守した9人の女性電話交換嬢はもはやこれまでと、「みなさん、これが最後です。さようなら…」の言葉を残し、青酸カリを飲んで集団自決した。
 我々日本人が絶対に忘れてはいけないのは、旧ソ連軍は8月15日の終戦以降、日本領樺太に攻めてきたということだ。これが昔も今も変らないロシアの体質。戦後日本の最大の幸運は北海道が旧ソ連に占領されなかったことだ。もし北海道が旧ソ連に占領されていたら、歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島と同じように、戦後60余年たっても日本に返還されることはなかった。
 ホルムスク港を一望する港公園まで行く。そこで明かりの灯りはじめた港を見ていると、日本人グループのライダーがやってきたことを聞きつけて、ホンダのアフリカツインに乗ったロシア人ライダーのオレッグが来てくれた。しばし英語を交えてのバイク談義を楽しんだ。
「ホルムスクホテル」に戻ると、ワニノ行きのフェリーの出港はさらに遅れ、夜明けになるという。そこでホテルでひと眠りして、真夜中の2時起床ということになった。ホルムスクからワニノにフェリーで渡るのは大変なことだ。青森から津軽海峡フェリーで函館に渡るようなわけにはいかない。

ホルムスク港のフェリーターミナル
オランダ製ビールで乾杯!


スープにはオクロップ
ライスボール&チキン


ホルムスクの郵便局
夕暮れのホルムスク港


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