環日本海ツーリング[110]
投稿日:2012年7月4日
東方を支配するために造られた町
日本海に面したロシア沿海州の港町ウラジオストクは、日本語ではウラジオストックとかウラジボストークなどと表記される。ロシア語ではウラジヴォストークで、ウラジは「支配する」、ヴォストークは「東方」を意味する。ロシアの東方支配の拠点として造られた町でその歴史は新しい。
1860年に町の建設が始まり、1870年代にはロシア極東の主要な港湾都市になった。さらにロシア極東艦隊の根拠地になっていく。
19世紀の後半にはシベリア鉄道の日本海側起点駅、ウラジオストク駅が完成する。
日本語ではかつて「ウラジオ」といっていたが、それはウラジオストクを漢字で「浦塩(潮)斯徳」と書いていた名残。「浦塩斯徳」を短くした「浦塩」の呼び名が定着したからだ。ぼくが子供の頃は「ウラジオ、ウラジオ」といっていた。ラジオのNHK第2で「ウラジオ、気温0度、風力2」というような天気情報を聞いていた記憶がある。なぜか韓国のモッポー(木浦)とソ連のウラジオ(浦塩)の地名が子供心に残り、「ウラジオ」と聞くと、遠い異国の地を連想したものだ。
ところでウラジオストクの町の建設がはじまった1860年は「北京条約」の締結された年。対ロシアとの北京条約は11月14日に結ばれた。
1858年にロシアと中国は「アイグン条約」を締結した。この条約によってロシアと中国の国境はほぼ確定。アムール川(黒龍江)右岸を中国領、左岸をロシア領とし、さらにウスリー川から日本海・オホーツク海に至る外満州(今の沿海州)は両国の共有地にした。
1860年の北京条約では1858年のアイグン条約が確認されたが、それのみならず、ロシア・東シベリア総督、ムラビエフの武力を背景とした豪腕で、両国の共有地の外満州を一方的にロシア領にしたのだ。衰退した中国・清朝はロシアに領土を強奪された。「強盗ロシア」の面目約如といったところだが、その北京条約締結前からロシアはウラジオストクの町の建設をはじめていた。
日本海の不凍港はロシアにとっては喉から手が出るほど、欲しいものだった。
なお、中国では今だに、超不平等条約の北京条約は無効だという声が強く、とくに旧満州(中国東北部)では、各地でけっこう激しく領土返還運動がおこなわれている。
今回の我々のルートはワニノに上陸し、シホテアリニ山脈を越え、アムール川の右岸地帯を走り、ハバロフスクからウスリー川沿いにウラジオストクへ、というもの。本来、このルートはすべてが中国領、ハバロフスクも中国領内に造られた町なのだ。
国力が弱まると、領土はむしりとられていく。その典型を見るような地域、まるで絵に描いたような地域を我々はバイクで走ってきたわけだが、国と国の関係というのはそういうものなのだ。
我々がバイクで走ってきた「ワニノ→ハバロフスク→ウラジオストク」というのは、弱肉強食の世界を見る、まるで教科書のような地域といっていい。
ウラジオストクはムラビエフ・アムールスキー半島南端の町。ムラビエフ・アムールスキー半島は広大な領土を自国領としたロシア東シベリア総督、ムラビエフにちなんだ半島名。領土強奪の親分の名前がウラジオストクの半島名になっている。
ムラビエフは1859年に黒船7隻を率いて江戸湾にやってきた。日本国内の混乱を見抜いてのことだが、江戸の町がロシアに強奪されなくてほんとうによかった!