環日本海ツーリング[134]番外編
投稿日:2012年7月28日
韓国往復縦断2005(3)
さー、慶州めぐりの開始だ!
釜山から国道14号で韓国最大の財閥、「現代」の企業城下町、蔚山へ。
バイクで走りながら「現代」の工場群を見る。その中でも、急成長をとげている現代自動車の工場が目立った。工場の近くには完成車がズラーッと並んでいた。壮観な眺めだ。
蔚山から国道7号を北上し、慶尚南道から慶尚北道に入り、「新羅千年の都」慶州に到着。新羅の歴史は次のようなものだ。
660年に百済を滅ぼした新羅は、668年には高句麗を滅ぼし、「三国時代」にピリオドを打って朝鮮半島統一を成しとげた。
しかし8世紀の後半になると、王位継承争いや農民の反乱などで国が乱れてしまう。
9世紀末には西部に後百済が、北部には後高句麗が建国され、朝鮮半島は混乱の「後三国時代」に突入する。
918年になると開城の豪族だった王建が後高句麗を倒し、国号を高麗と改めた。
935年に新羅はその高麗に倒されてしまう。
伝承によれば新羅の建国は紀元前57年なので、高麗に滅ぼされるまでの1000年間、慶州は新羅の都だったことになる。
なお高麗は翌936年に後百済を倒して朝鮮半島を統一。高麗時代はその後、1392年に李朝の祖、李成桂に滅ぼされるまでつづく。
ちなみに英語の「KOREA」は高麗に由来している。
「さー、慶州めぐりの開始だ!」
まずは慶州郊外の吐含山中腹にある世界遺産の仏国寺に行く。
新羅時代の751年に創建された古刹だが、1593年の壬辰倭乱でほとんどの木造の建造物が燃えてしまった。その後、何度か再建された。1970年から73年にかけては大規模な修復工事がおこなわれ、その直後の1995年に世界遺産に登録された。
入口の一柱門で拝観料の4000ウォンを払い、大伽藍の寺の境内に入っていく。四天王像が立つ天王門をくぐり抜け、まっすぐ歩いていくと正面には石垣の上に建つ紫霞門が見えてくる。その左手には安養門。城壁を思わせるような堂々とした石垣だ。寺全体が要塞のようにも見える。
紫霞門の奥に大雄殿、安養門の奥には極楽殿。本殿のそり上がった屋根の大雄殿には、本尊の釈迦牟尼像がまつられ、その左右には弥勒菩薩像と羯羅菩薩像が並んでいる。
紫雲門と大雄殿の間には、石造りの相塔、釈迦塔と多宝塔が立っている。大雄殿に向かって左側に3層の石塔の釈迦塔、右側には手のこんだ造りの多宝塔。さすがに新羅仏教美術の極致といわれる国宝の多宝塔と釈迦塔だけのことはあって、この双塔には目を吸い寄せられてしまう。何人もの人たちが双塔の下で記念撮影している。
仏国寺から慶州の市内に入っていく。
慶州は回りを山々に囲まれた盆地の町。東に吐含山、北に玉女峰、南には南山があり、兄山江が西側を流れている。慶州は四方を天然の砦に囲まれた要害の地だ。
古墳公園を歩く。新羅王朝の王族の古墳群で、7基の王陵をはじめとして全部で23基の古墳が復元保存され、地下にはなお250基もの古墳が眠っているという。宮崎県の西都原古墳群とよく似た風景の古墳公園だ。
次に640年前後に建てられたという東洋最古の天文台で知られる石造りの瞻星台を見る。高さ9メートル。上部がすぼんだ円筒形をした瞻星台は、まさに慶州のシンボルといっていい。
土台となっている礎石は4方向に3つずつ計12個が置かれ、これが4季と12ヵ月を表し、361個の花崗岩を28段に積み上げたその数は太陰暦の1年の日数を意味している。新羅時代の占星学者は塔中央部の窓から入る光の長さや、塔内側の底部の水鏡に映る星の動きなどから天体観測をしていたという。
「新羅千年の都」だけあって慶州は心に残った。
そんな慶州に別れを告げ、釜山から150キロの浦項へ。
町中の「ラマダ・アンコールホテル」に泊まった。ホテル近くの「太白山」という店で焼肉パーティー。韓国ビールで乾杯。そのあとは焼酎を飲みながら焼肉を腹いっぱい食べた。さすが韓国、メチャクチャうまい焼肉だ。飲みながら、食べながらのみなさんとの話はおおいにはずんだ。