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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[38]

投稿日:2012年12月31日

補陀落渡海の地

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 土佐清水から足摺半島に入っていく。この小半島の南端が足摺岬だ。
 往路ではメインルートの県道348号を行く。足摺半島の稜線近くを走るルート。以前は足摺スカイラインと呼ばれた有料道路だった。
 足摺岬に到着すると駐車場にアドレスを停め、椿の木が覆いかぶさる小道を歩き、岬の突端に立った。迫力のある岬の風景。断崖に太平洋の荒波がぶつかり砕け散っていた。
 岬の小道を歩いたあと、四国霊場八十八ヵ所第38番札所の金剛福寺に参拝。白装束のお遍路さんの姿をかなり見かける。
 足摺岬は聖地。ここは補陀落渡海の地でもあった。
「補陀落」とは天竺の極楽浄土のことで、観世音菩薩が住むという。足摺岬はその入口だと考えられていた。補陀落渡海の僧たちは観音浄土を求め、往生をとげようと、ここから二度と戻ることなく西の海に船出していった。紀伊半島・那智の補陀落山寺の補陀落渡海と同じような話だ。
 足摺岬から土佐清水への帰路は、海辺の曲がりくねった県道27号を行く。その途中の松尾、大浜、中浜は昔からカツオ漁の盛んな漁村だった。この地方のカツオ漁は文禄年間(1592〜96年)に紀州・印南の漁民たちがカツオ節の製法とともにもたらしたものだという。土佐と紀州は黒潮でつながっていた。
 松尾、大浜、長浜のうち、最後の長浜は足摺岬に大きな銅像が建っているジョン万次郎こと中浜万次郎の生まれ故郷だ。
 江戸時代の後期、文政10年(1827年)に中浜の漁民の次男として生まれた万次郎は、14歳のときに乗っていた漁船が難破し、漂流しているところをアメリカの捕鯨船に助けられた。
 船長は万次郎をアメリカに連れていき、アメリカで学ばせた。24歳になって帰国した万次郎は幕府の直参(将軍直属の武士)になり、得意の英語を駆使して幕末の日本の外交に大きく貢献した。万延元年(1860年)の咸臨丸(艦長勝海舟)での渡米のときにも同乗した。中浜はそんな歴史の舞台なのだ。中浜の集落を一望したあと、土佐清水に戻った。

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足摺岬に到着
足摺岬周辺の案内図


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足摺岬のジョン万次郎像
足摺岬突端への小道


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足摺岬の灯台
足摺岬の岩礁


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第38番札所の金剛福寺
金剛福寺の本堂


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ジョン万次郎の故郷の中浜
土佐清水に戻ってきた


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