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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[60]

投稿日:2013年1月28日

門司港レトロ探訪

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 10月11日。夜明けとともに小倉駅前を出発。駅近くの「まんなおし食堂」で小倉名物の「焼きうどん」(450円)を食べ、スズキの125ccスクーター、アドレスV125Gを走らせ、国道3号で門司港駅まで戻る。その途中では門司駅前でもアドレスを止めた。
 かつての九州鉄道網のターミナル駅、門司港駅に着くと、駐輪場にアドレスを停め、歩いて「門司港探訪」を開始。まずは入場券(160円)を買って当時の面影を残す駅舎内を歩く。改札口を通り抜け、ホームに出たところには九州鉄道網の「0哩碑」が建っている。2番ホームには博多からの電車が到着し、1番ホームからは荒尾行きの快速電車が発車するところだった。
 世界初の鉄道海底トンネル、関門鉄道トンネルが戦時中の昭和17年に開通するまでは、門司港駅から九州各地への列車が出ていた。門司港駅には今でもターミナル駅としての風格が残っている。
 前日、「寝太郎さん」のお父さんに案内してもらった門司港駅周辺の門司港レトロ地区を再度、歩く。旧三井倶楽部から旧大阪商船へ。写真のような旧大阪商船の建物は大正6年に建てかえられたという。当時としては超モダンな建物だったに違いない。1階が船の待合室で、2階がオフィスになっていた。
 当時の門司港はまさに日本の玄関口。大阪商船の「関門出帆汽船定期表」を見ると、朝鮮、台湾、中国、印度、欧州、米国に月に60隻以上もの船が出ていた。
 主な航路を上げると次のようになる。

米国線 月1回 東航 神戸→横浜→タコマ→シアトル→バンクーバー
西航 上海→香港
孟買線 月1回 香港→新嘉坡(シンガポール)→彼南(ペナン)→古倫母(コロンボ)→孟買(ムンバイ)
基隆線 月4回 基隆直行
大連線 月2回 大連直行
打狗線 月2回 長崎→基隆→澎湖島→安平(台南)→打狗(高雄)
天津線 月6回 天津直行
青島線 月2回 青島直行
安東線 月2回 仁川→鎮南浦→安東(丹東)
清津線 月3回 釜山→元山→西湖津→新浦→城津→清津
仁川線 週3回 釜山→馬山→木浦→群山→仁川

 これだけの定期船が門司、下関の関門港から出ていた。下関港からはさらに関釜連絡船も出ていた。関門海峡はまさにアジアの十字路だった。
 それもあって戦前の第75帝国議会で議決された「弾丸列車計画」は、東京と下関を結ぶもの。総工費5億6000万円という、当時としては桁外れの膨大な巨費を投じ、昭和15年に着工し、15年後の完成を目指した。最高時速200キロの列車が東京と下関を9時間で結ぶはずだった。しかし残念ながら、夢の「弾丸列車計画」は戦争で消えた。
「門司港探訪」の最後は関門連絡船。その乗り場に立ち、関門海峡対岸の下関を見る。ここからは1時間に3本の連絡船が、対岸の下関の唐戸に出ている。所要時間は5分、料金は390円。
 かつての関門連絡船は下関駅と門司港駅を結ぶ鉄道連絡船だった。昭和17年に関門鉄道トンネルが完成した以降も存続し、廃止されたのは昭和39年になってからだ。海底トンネル完成前の昭和15年には1日52往復、廃止直前の昭和39年でも20往復の便があった。
 関門海峡をはさんだ門司と下関は、関門が「アジアの十字路」だった頃とは比較にならないほど、今は衰退している。時代の流れとはいえ、それが何とも寂しい。関門港がもう一度、日本の玄関口になり、ここから外国航路の客船が次々に出ていく光景を見てみたいと思った。

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小倉駅前を出発
小倉駅近くの「まんなおし食堂」


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小倉名物の「焼きうどん」
門司駅


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門司港駅に戻ってきた
門司港駅の「0哩碑」


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門司港駅のホーム
旧三井倶楽部


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旧大阪商船
関門連絡船の乗り場


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