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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[64]

投稿日:2013年2月1日

志賀島一周

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 宗像大社の参拝を終えると、国道495号で福岡へ。その途中で志賀島に渡った。短い志賀島橋で本土側の「海の中道」と呼ばれる砂州とつながっている。
 志賀島に入ってすぐのところに志賀海神社がある。地元では「お島さま」とか「お志賀さま」と呼ばれているが、海の守護神として広く信仰されている。
 境内には「ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神」の万葉歌碑がある。「航海の難所の鐘ノ岬を過ぎたとしても、海路の無事を願った志賀の神を忘れません」という意味の歌だが、歌碑には次のような説明が書かれている。
「ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘ノ岬は現在の宗像市鐘崎の織幡神社が鎮座する岬で、対峙する地島との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです」
 志賀島は時計回りで島を一周した。博多湾に浮かぶ能古島がすぐ近くに見える。そのわきを大型フェリーが通り過ぎていく。島一周の道路沿いの店「たか木」でサザエの壷焼き(2個500円)を食べ、金印公園と元寇の蒙古塚でアドレスを止めた。ともに志賀島が大陸との深いかかわりを持つ島であることを実感させるポイントだ。
 金印公園は天明4年(1784年)に島の農民が「漢委奴国王」と彫り刻まれた金印をみつけたところ。公園の海を望む高台上には、拡大された金印の碑が建っている。実物は福岡市立博物館に展示されている。
 蒙古塚は2度の蒙古軍の襲来で戦死した数万の蒙古兵を弔うもので、ここには「蒙古供養塔」が立っている。
 文永11年(1274年)の「文永の役」では、撤退する際に座礁した蒙古兵が志賀島で捕虜となり、そのうち120人ほどが蒙古塚で首を斬られた。
 弘安4年(1281年)の「弘安の役」では、志賀島が激戦地になった。志賀島は能古島とともに蒙古・東路軍の停泊地となり、鎌倉幕府軍は海上と陸路から東路軍に総攻撃を仕掛けた。この「志賀島の戦い」で日本軍は大勝。蒙古・東路軍は志賀島を放棄し、壱岐へと逃走した。
 島の西側から東側に出ると右手に相ノ島、左手に筑前大島を見る。そして最後に志賀海神社に戻った。全行程10キロの「志賀島一周」だった。

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海の中道を行く
志賀海神社の鳥居


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志賀海神社を参拝
志賀島産のサザエ


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「サザエの壷焼き」を食べる
「金印の碑」


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能古島を見る
蒙古塚


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「志賀島の戦い」
博多湾対岸の糸島半島


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志賀島一周道路
相ノ島を見る


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