カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[70]

投稿日:2013年2月7日

ドン・バルトロメオ港

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 10月13日。5時30分、まだ暗い佐世保を出発。スズキの125ccスクーター、アドレスV125Gを走らせ、佐世保駅前から国道35号→国道202号で長崎へ。
 早岐で国道35号と分岐し、国道202号に入っていく。その分岐点を過ぎるとすぐに短い橋を渡り、針尾島に入る。この橋は九州本土と針尾島を分ける狭い早岐瀬戸にかかっている。小さな川程度にしか見えない早岐瀬戸なので、ほとんどの人は島に入ったことに気がつかないまま走り過ぎてしまう。
 針尾島は佐世保湾と大村湾を分ける島で、針尾瀬戸にかかる有名な西海橋を渡って西彼杵半島に入っていく。針尾瀬戸は「日本三急潮」のひとつ。夜明けの西海橋の上からは渦潮が見えた。
 国道202号で西彼杵半島の東シナ海側を南下。長崎までの間では本土と橋でつながっている大島、大瀬戸港の目の前に横たわる松島、九州最後の炭鉱となった池島(2001年11月に閉山)とアイランドウォッチしながら走り、7時30分、長崎に到着した。
 長崎駅前でアドレスを止めると、駅構内を歩き、売店で駅弁の「トルコライス」(850円)を買って食べた。ピラフ風ライスにカツがのっている。それにスパゲティーがついている。
 長崎駅前からアドレスで稲佐山(332m)に登ると、山上の展望台から長崎の市街地を一望した。
 7つの丘に囲まれた長崎の町。平地はほとんどない。わずかに浦上川沿いに細長く延びる平地がある程度。長崎駅や繁華街の浜町周辺にビルが集中し、その背後の丘の斜面にはびっしりと家々が建ち並んでいる。三方を山で囲まれ、残る一方を海に向けた長崎の地形がよくわかる。
 稲佐山の展望台の真下には奥深くへと切れ込んだ長崎港が見える。
 長崎港は天然の良港で、「鶴の港」といわれるように、鶴が大きく羽を広げたような形をしている。足下の海岸には林立する造船所のクレーン。鉄を打つ音やサイレンが山肌を這い上がって聞こえてくる。長崎港から東シナ海に出ていく船の汽笛も聞こえる。魚市場を見下ろし、漁港岸壁にずらりと並んだトロール漁船を見る。そんな稲佐山の山頂に届く音や山頂から見下ろす風景はまさに港町、長崎そのものだ。長崎港の出口には、いくつかの島々が浮かんでいる。その向こうには東シナ海の大海原が広がっている。
「あの大海原を越えて南蛮船や紅毛船、唐人船がやってきた!」
 と思うと、しばらくは稲佐山を離れることができなかった。
 長崎港の開港は16世紀になってからのこと。江戸時代、鎖国していた日本が世界に向けて開いた唯一の窓、それが長崎だ。
 日本には最初にポルトガル人がやってきた。15世紀後半から16世紀にかけてのポルトガルの東洋への進出には、目覚しいものがあった。大西洋、インド洋を越え、ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオと次々に拠点をつくり、そして日本をもうかがった。まさにポルトガルの黄金時代だ。
 ポルトガル船が平戸に入って交易を開始したのは天文19年(1550年)。日本人はポルトガル人のことを「南蛮人」と呼んだ。
 最初は平戸が南蛮貿易の中心地だった。片手に貿易、片手にキリスト教布教を目的にしたポルトガルは、切支丹(キリスト教徒)にならない領主の松浦氏に嫌気がさし、平戸から横瀬浦、福田浦と次々に貿易港を変え、元亀2年(1571年)に長崎に移した。開港以前の長崎は深江と呼ばれる一漁村に過ぎなかった。
 開港されると長崎は大村町、島原町、文知町、外浦町、平戸町、横瀬浦町の六ヵ町に町割された。長崎発祥の地は現在の県庁がある江戸町から万才町にかけての一帯だ。
 南蛮貿易の貿易港になってからというもの長崎は大発展をとげ、やがて教会領としてポルトガルに譲渡された。それは天正7年(1579年)のこと。当時の長崎はポルトガル人によって「ドン・バルトロメオ港」と呼ばれていた。
 ドン・バルトロメオ港が教会領、つまりポルトガル領ドン・バルトロメオになった頃、ポルトガルは衰退しはじめた。また日本においては戦国時代が終わり、織田信長によって、さらに豊臣秀吉によって国内が統一されようかという時期だった。
 このあたりが歴史のおもしろさというものだ。
 もしポルトガルの勢力が日本に達した頃、その国力が最盛期だったなら、強大な国力を保っていたなら、日本はその後のキリスト教禁止や鎖国はそう簡単にはできなかっただろうし、ポルトガル領ドン・バルトロメオはごく近い時代まで存在していたに違いない。
 豊臣秀吉は天下統一の夢をはたすと、伴天連(宣教師)の追放令を出し、切支丹の弾圧をおこなった。それは日本にキリスト教を伝えたイエズス会のあまりにも強引な布教の結果であった。徳川時代になり、寛永16年、3代将軍家光は鎖国令を出した。寛永18年には平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移し、日本の貿易港を長崎港だけにし、貿易船はオランダ船と中国船に限った。これ以降、長崎は紅毛船(オランダ船)、唐人船(中国船)の出入りする港として空前の繁栄を誇ることになる。
 そんな長崎港の歴史を稲佐山の山頂でしばし振り返ってみるのだった。

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夜明けの針尾瀬戸
国道202号を行く


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池島(右)を見る
長崎駅前に到着


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長崎駅を歩く
駅弁の「トルコライス」


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稲佐山の展望台
長崎の中心街を見下ろす


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浦上川沿いに延びる市街地
眼下には長崎の造船所


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