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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[162]

投稿日:2013年5月16日

絶世の美女、楊貴妃の墓

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 国道191号から油谷湾に突き出た油谷半島に入り、油谷湾岸の久津でアドレスを止めた。ここの二尊院にある五輪塔は何と、かの絶世の美女、楊貴妃の墓だと地元ではいい伝えられている。
 思わず「シルクロード横断」(2006年)で立ち寄った長安の都、現在の西安でのシーンを思い出すのだった。
 西安郊外の「華清池」は、唐の第6代皇帝、玄宗が楊貴妃を連れてしばしばやってきた温泉。玄宗のつかった湯船、楊貴妃のつかった湯船などが残されている。今でも43度という源泉が流れ出ているが、ここは3000年もの歴史を誇る温泉地なのだ。周の王室がここに別荘を持ったときから華清池の温泉の歴史が始まるという。さすが「歴史の国・中国」だけあって、日本とは桁違いの歴史の長さだ。日本最古の温泉といわれてる奈良県の湯の峰温泉でも、おそらくその歴史は千何百年といったところだろう。
 さて二尊院だが、そこには「楊貴妃の墓」として、次のように書かれている。

 唐の玄宗帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃は、安緑山の乱(755年〜763年)に遭遇して蜀に逃げる途中、長安の郊外、馬嵬の仏堂で絞殺されたと史書には書かれている。しかし巷では楊貴妃は死んでいなかったという噂もあったようで、有名な「長恨歌」には日本への東航を想像させる箇所がある。
 ここ久津の地では、昔から楊貴妃にまつわる伝説が語り継がれてきた。二尊院に残されている江戸時代の文書には、次のような言い伝えが記されている。
「唐の天宝拾五年七月(七五六年)空艪船に乗った楊貴妃は、唐渡口という所に漂着。まもなく死去し給うたので里人相寄り当寺院に埋葬した。玄宗皇帝の思い切なるため楊貴妃の霊が彼地に往来したのか、幾夜か夢枕に立たれ、皇帝は楊貴妃の死を知った。愛情やるかたなく追善のため、弥陀、釈迦の二尊像と拾三重の大宝塔を持たせ、家来の陳安を日本に遣わした。陳安は探したが、楊貴妃がいずれの地に漂着したか分からず、やむなく京都の清凉寺に二尊仏を預けて帰国した。後に漂着地が久津と分かったが、清凉寺では本朝無二の霊仏として評判が高かったため、手放すのが惜しくなった。そこで全く同じ仏像を仏工の名手に作らせ、新旧の仏像一体ずつを清凉寺と当寺院で安置することになった。その後、楊貴妃の墓、侍女の碑を建てることが出来た。」

 楊貴妃の墓だという高さが153センチもある大きな五輪塔に手を合わせ、二尊院を出発し、次に本州最西北端の川尻岬へ。ここは「風の岬」で知られているが、その名の通り、ゴーゴーとうなりを上げて強風が吹いていた。
 アドレスを駐車場に停めると、馬の背のような形で日本海に突き出た岬先端の小道を歩く。岬の岩礁では何人かの釣人を見る。ここは磯釣りのメッカだとのことで、タイやスズキ、チヌ、ヒラマサなどがよく釣れるという。
 川尻岬は絶景岬だ!

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久津の二尊院に到着
中央の五輪塔が楊貴妃の墓だといわれている


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この五輪塔は鎌倉後期の様式
二尊院に建つ楊貴妃像


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西安郊外の「華清池」の温泉
西安中心街のライトアップされた鐘楼


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本州最西北端の川尻岬に到着
川尻岬の展望台


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岬突端への道
岬突端の岩礁


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