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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[189]

投稿日:2013年6月18日

銭五は「海の百万石」

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「金沢探訪」はまだつづく。
金沢城と兼六園のあとは、金沢の台所の近江町市場を歩いた。近江町はその名の通り、江戸時代に近江商人たちの開いた商人町。そこにある市場なので「近江町市場」なのだ。
 近江町市場は午前中から買い物客でにぎわっている。大半は地元の主婦たち。これは金沢にとどまらず西日本に広く共通することだが、主婦たちは早い時間に買い物をすませる傾向がある。より鮮度の高い魚や野菜を買おうという意識が強いのだ。
「ハーイ、イラッシャイ、イラッシャイ!」
 威勢のいい掛け声が聞こえてくる。ここには魚屋や八百屋、肉屋、乾物屋などの店が200軒以上も軒を並べている。
 魚売り場では金沢名物の甘エビが山のように積まれている。カニはズワイガニのほかに毛ガニも目につく。毛ガニはまだモゾモゾと動いている。鮮魚のみならず、焼き魚も売っている。イワシやニシン、フグの粕漬や糠漬、カブラずし、大根ずしなどの売り場もある。そこに長く厳しい冬を乗り切る生活の知恵を見るような思いがした。
 野菜売り場に並ぶ能登産の栗や柿、松茸、加賀産の蓮根、白山のナメコ、シメジなどからは季節を感じた。
 近江町市場を出発。すぐ近くの武蔵辻の交差点から金沢駅の西側を通り、犀川河口の町、金石(かないわ)に向かう。金石は江戸時代には金沢の外港として栄えた。当時は宮ノ腰と呼ばれた。北国街道の武蔵辻で分かれる宮ノ腰往還は、金沢にとってはきわめて重要な街道だった。
 宮ノ腰は江戸時代の豪商、銭屋五兵衛、通称「銭五」の本拠地でもある。海運で巨額の富を成した銭五は最盛期には青森、弘前、松前、箱館(函館)、長崎、兵庫、大坂(大阪)、江戸に支店を置いた。当時としては日本有数の総合商社といっていい。幕府の目をかすめ、ロシア船やアメリカ船と密貿易もしていた。
 銭五は「海の百万石」といわれたほどの繁栄を謳歌し、北は樺太から南はジャワ島までの広い世界を相手に商売をした。そして莫大な利益を得た。ぼくは北海道・礼文島北端のスコトン岬で銭五の碑を見たことがある。
 しかしその栄華は長くはつづかなかった。銭五から多額の借金をした加賀藩の派閥争いに巻き込まれ、一代の豪商、銭屋五兵衛は一族もろとも、あえない最期をとげてしまう。
 金石の「銭屋五兵衛記念館」を見学すると、そのあたりの銭五の歴史がよくわかる。
 日本海の海岸近くの銭五公園には銭屋五兵衛の銅像が立っている。
 犀川の河口まで行き、そこでアドレスを止め、防波堤に立った。長くつづく日本海の砂浜を眺めながら、そんな金沢にまつわる歴史に思いを馳せるのだった。

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近江町市場を歩く
市場内の魚売り場


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こちらは野菜売り場
市場内の食堂


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金石の「銭屋五兵衛記念館」
金石の「銭五公園」


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銭屋五兵衛の銅像


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