アドレス日本一周 east[6]
投稿日:2013年7月22日
内房から外房へ
東京湾の出口に突き出た岬、洲崎を過ぎると内房海岸から外房海岸へと海が変わる。
太平洋を見ながらアドレスを走らせる。切る風に黒潮の香りをかぎながら走る気分はたまらない。房総半島最南端の野島崎へと続く太平洋岸の道は通称「フラワーライン」。早春にはキンセンカやスイセン、菜の花などの花畑が満開になるが、晩秋のこの季節だと花は見られない。
野島崎に着くと、岬入口の漁港の岸壁に腰を下ろし、漁から戻ってきた漁船を眺めた。そして厳島神社に参拝。岬に神社はつきもので、厳島神社や熊野神社、住吉神社といった海とのかかわりの深い神社が多くまつられている。
境内にはテカテカに光った男根が奉納されている。大漁を祈願してのものなのだろう。
岬の灯台へ。
漁港と神社と灯台は岬の「三点セット」のようなものだ。
野島埼灯台は1866年(慶応2年)、米、英、仏、蘭の四ヵ国条約によって建てられた日本初の洋式8灯台のひとつ。三浦半島の観音埼灯台に次いで1869年(明治2年)12月に初点灯した。
全国にある2600余の灯台の中では2番目に古い歴史をもっている。
灯台に登って太平洋の水平線を眺め、足元に広がる白浜一帯の海岸線を見下ろした。野島崎は白浜の岬だが、岩礁の海岸線は白浜というよりも黒磯だ。
それなのに、なぜ白浜かといえば、紀州の白浜に由来しているからだ。紀州と房州は「黒潮の道」で結ばれていた。房州の漁業を発展させたのは、この地に移り住んできた紀州の漁民たち。当時の紀州の漁民というのは日本でも最先端の漁業技術を持っていた。
野島崎は、もともとは地名通り「野島」という島だった。
それが元禄大地震(1703年)で陸地につながった。さらに関東大震災(1923年)で隆起し、岬周辺は岩礁地帯になった。
「岬は生きている!」
それを実感させてくれるのが野島崎だ。