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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 east[30]

投稿日:2013年8月18日

災害は忘れた頃にやってくる

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2008年11月25日

 大船渡からは海沿いの県道9号を走り、大船渡湾越しに大船渡の町並みを眺める。大船渡湾が奥深くまで切れ込んだ湾だということがよくわかる。
 綾里に着くと、まずは綾里漁港へ。岸壁にアドレスを止め、カモメの群れる漁港の風景を眺める。何度も大津波に襲われている綾里を象徴するかのように、漁港はぐるりと巨大な防潮堤で囲まれている。
 ここは津波の特異地帯といってもいいほどで、明治29年(1896年)6月15日の「明治三陸大津波」では38・2メートルという最大波高を記録した。「明治三陸大地震」によってひきおこされた「明治三陸大津波」では2万1959人もの死者を出したが、この大災害によって「三陸」、「三陸海岸」の名前は日本中に定着したといわれる。
 さらに綾里では昭和8年(1933年)3月3日の「昭和三陸大津波」でも28・7メートルという最大波高を記録した。このときの「昭和三陸大津波」は死者・行方不明者3066人を出している。
 そのあと三陸鉄道南リアス線の綾里駅に行く。駅前には「明治三陸大津波」と「昭和三陸大津波」の被害状況が克明に記されている。
「明治三陸大津波」(1896年)での岩手県の死者・行方不明者は18158人、旧綾里村は1269人。田浜や石浜、港など旧綾里村の集落ごとの犠牲者数も書かれている。負傷者数や被災戸数、流出戸数、倒壊家屋数などの数字も書かれている。
「昭和三陸大津波」(1933年)での岩手県の死者・行方不明者は2713人、旧綾里村は180人で、「明治三陸大津波」と同じように克明な数字が記入されている。
 この看板には「平成19年6月 大船渡市立綾里小学校」とあるので、地元の小学校の皆さんが資料を集めて作成したものなのだろう。
 それには「暴れ狂った海 災害は忘れた頃にやってくる」と大書されている。
 さらに「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」とも書かれている。
 綾里からさらに県道9号を行く。すぐ近くが海岸だとは思えないような山深い風景。そんな山中を抜け出ると、目の前には越喜来湾が見えてくる。越喜来湾の一番奥に越喜来の町がある。
 越喜来からは国道45号で釜石に向かったが、その間では次々に峠を越えていく。
 峠は長大なトンネルで貫かれている。
 羅生峠を越えると吉浜湾でここまでが大船渡市になる。
 次の鍬台峠のトンネルを抜けると釜石市に入り、唐丹湾に下っていく。
 次の石塚峠のトンネルを抜けると釜石湾で白亜の釜石大観音像が見えてくる。
 釜石ではJR釜石線と山田線、三陸鉄道の釜石駅前まで行き、駅近くの食堂で「ウニ丼」(2500円)を食べた。そして釜石の中心街を走り抜け、釜石港の岸壁でアドレスを止めた。

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カモメが群れる綾里漁港
綾里漁港の防潮堤


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綾里駅前の大津波の被害状況
吉浜湾の漁港


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唐丹湾の漁港
川の対岸が釜石駅


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釜石の「ウニ丼」
釜石湾の釜石港


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