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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 east[101]

投稿日:2013年11月9日

新しいジンクス

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2008年12月9日

 国道232号で留萌に到着すると、まずは留萌川河口近くの黄金岬に行く。そこには「波濤の門」と彫り刻まれた石塔が建っている。その周辺は岬公園。東屋風の休憩所もある。アドレスを停めると、日本海を見ながら岬突端の岩礁地帯を歩いた。
 次に留萌川河口の留萌港へ。ここはかつての石炭積出港。留萌近くの大和田炭田の石炭は馬車で港まで運ばれ、ここから船で本州に送られた。明治43年の「深川?留萌」間の留萌線開通後は、空知炭田の石炭も留萌港から本州に送られた。
 その石炭も廃れ、今の留萌港には寂しさだけが漂っている。
 留萌も小平同様、かつてはニシン漁で栄えた。
 その歴史は古く、寛延3年(1750年)にはニシン漁場の「留萌場所」ができたという。留萌場所は「千石場所」と呼ばれたほどの好漁場で、ニシン漁は江戸後期から昭和20年代の後半までつづいた。ニシンは留萌に限りない繁栄をもたらした。しかしそれ以降ニシンはパッタリ獲れなくなってしまったが、今でも「留萌の数の子」は有名だ。それはかつての留萌を支え、留萌に繁栄をもたらしたニシン漁の名残といえる。
 留萌港から留萌の町に入っていく。
 留萌の中心街にあるビジネスホテル「R?inn」に立ち寄る。オーナーの村田竜志さんとのなつかしい再会。奥様の大内須美子さんにも会えた。
 1987年から翌88年の「サハラ砂漠往復縦断」の復路編ではニジェールの首都ニアメーのキャンプ場に泊まったが、そこでお二人に初めて出会った。

 ニアメーのキャンプ場には、フランス人、ドイツ人の旅行者が圧倒的に多かったが、そのほかイギリス人、イタリア人、オランダ人などのヨーロッパ人旅行者以外に、オーストラリア人やニュージーランド人が目についた。さらに、日本人旅行者もいた。
 ヤマハ・テレネ600で、それも、タンデムでサハラを越えてきた村田竜志さん、大内須美子さんのカップルと、ヒッチハイクでサハラを越えてきた川口卓美さんだ。
 村田さん、大内さんはフランスでテネレ600を買い、アフリカに渡り、タンデムでのサハラ縦断に挑戦した。サハラの砂との大格闘の末にニジェールに入ったが、2人そろって早々にマラリアにやられ、やっと体力が回復してきたところだった。
 川口さんはスズキの営業マンだったが、どうしても広い世界を見てみたいと、会社を辞めて旅立った。中国からチベットを経由してネパールに入り、インドへ。そして西アジア、ヨーロッパの国々を通り、アフリカにやってきた。日本を発ってからすでに1年半がたっている。これから、赤道アフリカを横断し、東アフリカを目指すという。
 インドでは猛烈な下痢にやられ、イランでは肝炎の高熱にうなされながらも、アフリカまで旅をつづけてきた強者の川口さんは、
「日本に帰ったら、仕事を探さなくちゃ」
と、笑いとばしていた。

フィールド出版刊『世界を駆けるゾ! 40代編上巻』より

 村田さん夫妻との出会いは鮮烈な印象を受けた。お話を聞いて、「スゴイ!」と思った。あの際限もなくつづく砂道をよくぞタンデムで走りきったものだと心底、感心した。さぞかし大変なことの連続であっただろう。
 オフロード大好きな村田さんはその後、パリ・ダカールラリーや幾多の海外でのラリーに参戦している。
 ぼくは1999年の「50代編・日本一周」で一晩、泊めてもらい、そして今回の「60代編・日本一周」でまた村田夫妻との再会をはたした。ほぼ10年ごとの村田夫妻との出会いということになる。
 お二人としばし「サハラ砂漠縦断」の話をしたが、ほんとうに申し訳ないことに、猿払での転倒で痛めた胸がズキンズキン痛み、胸を押さえながら話さなくではならなかった。それを見て、村田夫妻にはよけいな心配をかけてしまった。
 楽しいサハラ談義を終えて出発しようとすると、大内さんからなつかしのサハラの味覚、きれいにパックされたナツメヤシをいただいた。
 留萌駅前でアドレスを止め、ナツメヤシのパッケージを開けると、大内さんからのメッセージが入っていた。
「いつもある訳ではないんです。アフリカ以外でたった2度、ナツメヤシがあるときに、なぜか賀曽利さんがみえてくれるんです。ナツメヤシがやってくると、賀曽利さんも来てくれる。我が家の新しいジンクスが生まれました」
 留萌の駅前で食べたナツメヤシは何とも胸にしみる味だった。

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黄金岬の「波濤の門」
黄金岬突端の岩礁


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留萌港
留萌の町に入っていく


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