カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

V-Strom1000で行く台湾[28]

投稿日:2015年10月9日

台湾のヘソ

2015年8月7日(4日目)

 キャンプ場の朝食開始。お粥を器によそい、その上に玉子焼きやモヤシ、キャベツ、漬物などをのせて食べる。「お粥丼」といったところだ。これが美味で3杯飯ならぬ3杯粥を食べた。といってもお粥なので、3杯食べても腹にはもたれない。朝粥はほんとうにいい。

 名残おしいキャンプ場を出発。我々はV−ストロームを走らせて埔里へと下っていく。その途中、霧社の町を過ぎたところにある「霧社事件」の記念碑に立ち寄った。「碧血英風」と書かれた白い石門をくぐると「抗日英雄像」があり、その奥に記念碑が建っている。「霧社事件」は昭和5年(1930年)10月27日未明に起きた。山地民タイヤル族のモナ・ルタが率いる蜂起部隊約300名は霧社管内の駐在所を次々に襲撃し、巡査と家族を殺害し、大量の武器を手に入れた。それを持って日本人学校を襲撃し、日本人の大人、子供134名を殺害した。当時、台湾を支配していた日本の当局は軍隊をも動員したが、タイヤル族の蜂起部隊を鎮圧したのは事件発生から50日後のことだった。「霧社事件」の記念碑前に建つ「抗日英雄像」というのはモナ・ルタ(莫那魯道)の像であり、ここにはモナ・ルタの墓もある。

 霧社から山を下った山裾に埔里の町がある。埔里は「台湾のヘソ」。「台湾中心の地」公園には「台湾中心の地」碑が建っている。碑には「山清水秀」と書かれている。名水の地なので、台湾産「紹興酒」の名産地になっている。さらに「山清水秀」の地のなせる技なのだろう、埔里は「埔里美人」でも知られている。町を歩く女性にはなるほど美人が多いように見えた。

 埔里は1999年の台湾大地震の震源地に近く、大きな被害を出したところだが、大地震の傷跡は今ではほとんど見られない。台湾大地震の際には日本からいちはやく支援を受けたということで、2011年の東日本大震災では「日本を助けよう!」と市民が一丸となって募金活動を行い、多額の支援金を早々に日本に送ってくれた。そんな埔里なのだ。

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▲キャンプ場の朝食開始!

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▲テーブルに料理が並ぶ

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▲これが「お粥丼」

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▲デザートの台中のナシ

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▲名残おしいキャンプ場

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▲さー、出発だ!

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▲霧社の「霧社事件」記念碑の石門

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▲埔里の「台湾中心の地」碑

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▲埔里の中心街に入っていく

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