カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

V-Strom1000で行く日本[54]

投稿日:2016年1月22日

「奥の細道」最北の地

2015年10月6日(東京〜青森)

 国道7号の山形・秋田県境に到着すると三崎公園に入っていく。入口には「奥の細道」の「三崎峠」の碑。このあたりに中世の「有耶無耶の関」があったという。駐車場まで下るとV-ストローム1000を止めて展望台に登り、日本海の海岸線を一望し、正面の水平線上に浮かぶ飛島を見る。不動崎、大師崎、観音埼の3岬を総称して三崎といっているが、ここから見る日本海に落ちる夕日は最高の美しさだ。

 国道7号に戻ると北へ。左手に日本海を見ながら走り、象潟に到着。ここが「奥の細道」最北の地になる。芭蕉の『おくのほそ道』は我が旅の教科書のようなものだが、その中でも、ぼくは次のような象潟の項が一番、好きだ。

 江山水陸の風光を尽くして、今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北のかた、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色またたのしきものと、あまの苦屋に膝入れて、雨の晴るるを待つ。その朝、天よくはれて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まず能因島に舟寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向かうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老の木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり。神功皇后の御墓という。寺を干満珠寺という。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天を支え、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遥かに、海北にかまえて、波うち入るる所を汐越といふ。江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

 芭蕉は「江山水陸の風光を尽くして」と、象潟を絶賛している。まるでここが「奥の細道」のゴールだといわんばかりの書き方で、象潟の描写にはひときわ熱が入っている。

 とくに印象深いのは干満珠寺から見た風景だ。

「この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天を支え、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通う道遥かに、海北にかまえて、波うち入るる所を汐越という」

 この1節は『おくのほそ道』を通しても一、二の名文。「むやむやの関」とあるのは「有耶無耶の関」のことである。

 象潟に到着すると蚶満寺(拝観料300円)を参拝。この寺が芭蕉の時代の干満珠寺になる。境内には芭蕉像と絶世の美女、西施像が建っている。しかし今では、『おくのほそ道』にあるような風景は見られない。象潟が潟でなくなってしまったからだ。

 なんとも残念なことだが、文化元年(1804年)の「象潟地震」でこの一帯は隆起し、「江の縦横一里ばかり」とある潟が陸地になってしまった。蚶満寺の境内には舟つなぎ石が残されている。それが当時は潟の岸辺にある寺だったことを証明している。またここからはポコッ、ポコッと盛り上がった小丘をいくつも見るが、それが当時の九十九島。今では稲田の中に浮かんでいる。象潟の郷土資料館に行くと、大地震以前の復元された模型が展示されている。それを見ていると、あらためて「残念…」という気持ちがわき上がってくる。

 芭蕉は「松島は笑うがごとく、象潟は憾がごとし」といっているが、まさにそのとおりの現状だ。松島は時代を越えた「奥の細道」ブームも手伝って、押すな押すなの大盛況。瑞巌寺や五大堂などは、人をかきわけて歩くようなものだ。それにひきかえ、潟でなくなってしまった象潟はまるで忘れ去られたかのような存在で、訪れる人は少ない。蚶満寺の参拝を終えると、道の駅「象潟」の「眺海の湯」(入浴料350円)に入り、名残おしい象潟を離れるのだった。

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▲国道7号の山形・秋田県境

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▲山形・秋田県境の三崎峠

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▲三崎の展望台

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▲三崎の展望台からの眺め

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▲象潟の九十九島

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▲象潟の蚶満寺の参道

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▲象潟の蚶満寺の山門

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▲象潟の蚶満寺の芭蕉像

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▲象潟の蚶満寺の芭蕉

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▲象潟の蚶満寺の舟つなぎ石

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▲道の駅「象潟」

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