奥の細道紀行[82]
投稿日:2017年1月7日
結びの地「大垣」に到着
北国脇往還の国道365号で滋賀県から岐阜県側に入ったところで、伊吹山(1377m)の山頂まで行ってみる。国道365号を左折し、有料の伊吹ドライブウエイ(2100円)を登っていく。滋賀・岐阜県境の聳える伊吹山は伊吹山地の主峰。滋賀県の最高峰でもある。
さすが人気の伊吹ドライブウエイだけあって、終点の大駐車場は満車状態。登山道の入口には「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」の芭蕉句碑も建っている。駐車場から40分ほど歩くと山頂に到着。そこには大和武尊の像が建ち、伊吹山寺がまつられている。
伊吹山を下ると関ヶ原へ。北国脇往還は関ケ原宿で中山道に合流する。ここでは日本の歴史を大きく変えた関ヶ原の合戦の地を見てまわった。東軍の大将、徳川家康の陣地跡や西軍の総大将、石田三成が陣地を置いた笹尾山、合戦の戦死者をまつる東首塚や西首塚などを見てまわった。
慶長5年(1600年)9月15日。午前8時頃になると霧が晴れはじめ、それとともに東軍の井伊、松平隊が動き出し、西軍の島津隊に向かって攻撃を仕掛けようとした。それを見て、東軍の福島正則隊は西軍の宇喜多秀家隊を猛烈に攻めはじめた。こうして関ヶ原の合戦の火蓋は切られた。東軍の右翼に陣取っていた諸隊は一斉に西軍の石田三成隊や小西行長隊を攻めたてた。家康は後方の桃配山に陣を置いていたが、午前11時頃には関ヶ原の中央に陣を移して全軍の指揮を取った。
一進一退をつづけていた戦いは、正午過ぎになると西軍が有利になった。ところが南の松尾山に陣を張り、戦況を傍観していた小早川秀秋隊は突如、西軍を裏切った。それに追随して赤屋隊、小川隊、朽木隊、脇坂隊が反旗をひるがえした。そのため形勢は一気に逆転し、西軍の大谷隊、宇喜多隊、小西隊…は次々に敗れ去り、残るは石田隊と島津隊だけになってしまった。ついに石田隊も敗れ、島津隊は残った兵の200余名で家康の本陣に決死の突撃を試みた。しかし家康を討つことはできず、そのまま敵陣を突破して逃走し、午後3時には東軍の大勝利のうちに天下分け目の合戦は幕を閉じた。それはまた日本の戦国時代の終焉を告げるものであり、二百数十年にも及ぶ徳川時代の幕開けでもあった。
伊吹山地南端の関ヶ原は日本を二分する合戦のおこなわれた地だけあって、昔から東国と西国を分ける境目になっていた。この地には鈴鹿、愛発と並ぶ日本の「古代三関」の不破の関が置かれていた。関よりも東が東国ということになる。「不破関跡碑」を見たあと「不破関資料館」を見学したが、そこには当時の関の模型が展示されている。東国に向けては長い土塁が築かれているが、西国側は柵のみ。駐屯していた兵士たちの模型も展示されている。ここは関所というよりも、東国から都を守るための要塞だった。
「奥の細道」もいよいよ最後の行程になった。関ヶ原からは国道21号で大垣へ。その途中では美濃の一宮の南宮大社を参拝し、大垣の町中に入っていく。そして「奥の細道むすびの地」でST250を停めた。
露通もこの港まで出で迎ひて、美濃の国へと伴ふ。駒に助けられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来り合ひ、越人も馬を飛ばせて、如行が家に集まる。前川子・刑口父子、その外親しき人々、日夜訪ひて、蘇生の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる。旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて、
蛤の ふたみに 別れ行く秋ぞ
『おくのほそ道』の最後となる「大垣」の項の冒頭にもあるように、露通(路通)が敦賀の港に出迎えてくれた。そこから芭蕉は露通と一緒に行くことになる。越前から近江を通り、美濃に入り、8月21日(今の暦では10月14日)、ついに「奥の細道むすびの地」の大垣に到着した。江戸の深川を出発してから156日目のことだった。
大垣には長い間、芭蕉に同行した曽良もかけつけた。
だが、芭蕉の旅はここではまだ終らない。
「伊勢の遷宮拝まんと、また舟に乗りて、」
とあるように、2週間大垣に滞在したあと、曽良と露通を伴って伊勢へと旅立っていく。それは伊勢神宮の式年遷宮に合わせての旅立ちだった。
芭蕉の足跡を追うカソリも、さらにST250を走らせ、芭蕉の故郷の伊賀上野から伊勢へと向かうのだった。