カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

『地平線通信』(第21回目)(2020年5月号より)

投稿日:2021年1月27日

1968年の3人

●先月号(4月号)の『地平線通信』を読んで、ビックリしましたよ。何と1968年に江本嘉伸さんと三輪主彦さんのお二人は、「さくら丸」に乗って、香港に渡ったというではないですか。「さくら丸」は大阪商船(後の商船三井)の船。大阪商船は「さんとす丸」、「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」の3隻の南米への移民船(太平洋航路)を持っていました。江本さんは読売新聞の記者として取材で乗っていたようですが、三輪さんは香港に渡ると、カラコルム山行に向かっていったというのです。それが三輪さんの初めての海外旅行。お二人が「さくら丸」の船上でまったく顔を合わせることもなく乗船していたというのが、じつに面白いではないですか。●ぼくがビックリしたのは、江本・三輪両氏の船出が「1968年」だったからです。この年、ぼくも横浜港からオランダ船の「ルイス号」に乗船しました。賀曽利隆、20歳の船出です。友人の前野幹夫君と2台のオートバイ、スズキTC250とともに、アフリカのモザンビークに向かったのです。「ルイス号」は釜山、香港、シンガポールに寄港し、インド洋を越えてアフリカ南部のモザンビークへ。我々は当時はポルトガル領だったモザンビークのロレンソマルケス(現マプト)港で下船すると、アフリカ大陸縦断を開始。地中海のアレキサンドリアを目指したのです。●一方、「ルイス号」はそのあと南アフリカのケープタウンから大西洋を越え、ブラジルのサントス、ウルグアイのモンテビデオと寄港し、終着のアルゼンチンのブエノスアイレスへ。この時代、すでに太平洋経由の南米への移民船は終わり、インド洋経由の「ルイス号」は日本を出た最後の南米への移民船になりました。今から50余年前の1968年というと、江本さんはまだ20代、三輪さんは22、3といったところでしょうか。我々はまさに青春の真っ最中で、怖いものなしの血気盛んな年代でした。●ぼくはその後、「アフリカ縦断」を拡大させた「アフリカ一周」(1968年〜1969年)から帰ると、民俗学者の宮本常一先生が所長をされていた日本観光文化研究所に出入りするようになり、そこで三輪さんと出会うのです。三輪さんはよき先輩で、文章の書き方を教えてもらい、写真の撮り方を教えてもらいました。日本観光文化研究所のプロジェクトで、三輪さんと一緒に日本を歩かせてもらうことも何度かありました。ぼくは「アフリカ一周」のあと、「世界一周」(1971年〜1972年)、「六大陸周遊」(1973年〜1974」と世界を駆けめぐり、1975年に結婚。長女が誕生し、生後10ヵ月になったときに子連れの旅に出ました。横浜からロシア船の「バイカル号」に乗ってナホトカへ。そこからシベリア鉄道でシベリアを横断し、ヨーロッパを南下。ジブラルタル海峡を渡ると、アルジェリアの首都アルジェからサハラ砂漠を縦断しました。ナイジェリアのラゴスからケニアのナイロビに飛び、日本に帰ってきたのです。●9ヵ月に及ぶ子連れの旅は読売新聞で連載されました。その連載を担当してくれたのは北村節子さんです。北村さんに紹介されて、読売本社内の喫茶室で江本さんに初めてお会いしたのです。「1968年の船出」から10年後の1979年に「地平線会議」が誕生しました。江本さんと三輪さんが代表世話人でした。東京・四谷の喫茶店「オハラ」と「オハラパートⅡ」で喧々諤々の議論を重ね、9月28日に東京・青山の「アジア会館」で、第1回の「地平線会議」の報告会が開催されました。報告者は三輪さん。「アナトリア高原から」と題して話してくれました。報告会の担当はカソリでした。「1968年の船出組」の数奇な運命とでもいいましょうか、何の縁もゆかりもなかった江本、三輪、賀曽利の3人が、「地平線会議」で結びついたのです。●報告会に先立って、「ハガキ通信」を出しました。それには、次のように書かれています。「こんにちは〜。ダイヤルしていただいてありがとう。こちらは地平線放送です。地平線会議っていう名前の会が今月からスタートしました。ダイヤルをまわすと、かわいらしい女性の声で、こんな放送が流れてきますよ。9月いっぱいで試験放送を終え、本放送に入ります。地平線会議の詳しい内容は、本放送に入った頃に聞いてください。手短に紹介すると、探検や旅に夢をえがく仲間達の参加自由な集まりです。代表もいなければ、会員としてしばりつけられることもありません。●今、私達が考えているプロジェクトは①テレホンニュースの「地平線放送」②毎月の集会 第1回目は9月28日(金)PM6:30 三輪主彦さんの「アナトリア高原から」 アジア会館(地下鉄青山一丁目)③探検・冒険・旅の活動年報などなどです。この他にも、さまざまなプロジェクトが試みられることになるでしょう。このために私達は世話人を求めています。①世話させ人 1万円を出して下さる人②世話する人 知恵や労力を提供して好きなプロジェクトを推進する人(もちろんタダ働き)③世話させられ人 その時、たまたま運が悪く、ひっぱりこまれて協力させられる人。皆さんの参加を求めます。9月28日(金)の集会で、地平線会議の趣旨を皆で考えましょう。●9月20日現在の世話人は次の通りです。宮本千晴・向後元彦・伊藤幸司・岡村隆・賀曽利隆・江本嘉伸・森田靖郎・神崎宣武・三輪主彦・丸山純・宮本正史・青柳正一・北村節子・菅井玲子・武田力」。この「ハガキ通信」が『地平線通信』になりました。●地平線会議誕生から今年で41年目。江本さんの大変なご苦労のおかげで、第491回目の「地平線報告会」が開催されました。第492号の「地平線通信」も発行されました。こうして地平線会議の活動が途切れることなく今に続いているのは、地平線会議誕生時のあの熱気がいまだ冷めずに、世代を超えて伝わっているからだとぼくは思っています。(賀曽利隆)

1968年の船出。カソリ、20歳の旅立ちだ。オランダ船の「ルイス号」に乗ってアフリカへ。横浜港には父や母、祖母、叔父、叔母、いとこたちが見送りにきてくれた。1968年4月12日のことだった

▲1968年の船出。カソリ、20歳の旅立ちだ。オランダ船の「ルイス号」に乗ってアフリカへ。横浜港には父や母、祖母、叔父、叔母、いとこたちが見送りにきてくれた。1968年4月12日のことだった

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