『地平線通信』(第23回目)(2021年1月号より)
投稿日:2021年1月29日
「国府めぐりの日本一周」、終了!
●みなさ〜ん、あけましておめでとうございます。昨年は新型コロナに痛めつけられましたが、今年はコロナ禍を吹き払いましょう。昨年の『地平線通信2月号』ではカソリ、全国の「一宮めぐり」を終え、これからは10年計画で旧国の「国府めぐり」を始めますと、みなさんにお伝えしました。その「国府めぐり」を10年どころか1年で終わらせることができました。これは「コロナ禍」のおかげです。新型コロナの影響で、カソリ登場のイベントが次々にキャンセルになり、そのおかげでまとまった日数が取れるようになったのです。ぼくは「これは絶好の好機だ!」と、とらえました。●ということで昨年の11月28日に「国府めぐり日本一周」の最後となる「九州一周」を終えることができました。4月10日に「北海道一周」を開始して以来、7ヵ月半で終わらせた「国府めぐり日本一周」では、日本の「五畿七道」の68ヵ国をめぐりました。北海道を入れれば、五畿八道の78ヵ国になります。残念ながら北海道11ヵ国目の千島国には足を踏み入れることはできませんでしたが。バイクで正味63日間、2万5945キロを走りました。●「九州一周」は、北九州市の門司港を出発点にしました。反時計まわりでの「九州一周」。まずは筑前の「国府めぐり」です。筑前の一宮、筥崎宮と住吉神社の2社を参拝し、筑前の国府所在地の大宰府へ。大宰府では、壮大な規模の「大宰府政庁跡」を歩きました。ここは筑前の国府というよりも、西日本最大の都城跡といった方がいいですね。じつは筑前の国府跡はよくはわかっていないのです。総社も不明です。国分寺跡には「文化ふれあい館」がありますが、そこには七重塔の模型が建っています。七重塔は全国の国分寺のシンボルなのです。国分尼寺跡には案内板がポツンと立っているだけで、近くの「国分公民館」の前に国分尼寺の礎石が置かれていました。国分寺跡の西側は水城跡です。ここには唐・新羅の侵攻に備えてつくられた大規模な土塁と濠が残っています。当時の日本の国防最前線基地でした。最後に大宰府天満宮に行きましたが、コロナ禍などどこ吹く風で、西鉄の大宰府駅前からの参道はあふれんばかりの人の波でした。拝殿前には長蛇の列ができていました。人影もまばらな大宰府政庁跡と参道を埋め尽くす人、人、人の大宰府天満宮。あまりにも対照的な大宰府の2つの顔でした●筑前につづいて筑後へ。九州一の大河、筑後川を渡って久留米の町に入っていきました。久留米が筑後の国府所在地。まずは久留米の町並みを見下ろす高良山に登り、筑後の一宮の高良大社を参拝。そのあと山裾のJR久大本線の久留米大学駅に行きました。駅前には国府跡の「横道遺跡」の碑。駅の近くにある小さな祠の味水御井(うましみずみい)神社は筑後の総社です。国道210号を越えた合川にある合川保育園前の広い草地は筑後の国府跡です。このように国府は筑後に限らず、時代とともに変遷しているところが多いのです。最後に県道752号沿いの国分町へ。国分寺にちなんだ「国分」の地名が、ここでもしっかりと残っています。国分日吉神社に隣接する国分寺跡には現行の国分寺があります。こうして国府、総社、国分寺の3点セットを探しまわるのは、「国府めぐり」の一番のおもしろさなのです。●久留米から筑後川を渡って佐賀県へ。筑後川が筑後・肥前の国境になっています。肥前の一宮、千栗(ちりく)八幡宮と與止日女(よどひめ)神社の2社を参拝すると、肥前の「国府めぐり」の開始です。長崎道の佐賀大和ICのすぐ近くに国府跡があります。南門が復元され、前殿、正殿、後殿の跡を見てまわりました。西脇殿跡、東脇殿跡もあります。国府跡の「肥前国庁跡資料館」を見学。ビデオでは肥前の国庁(今でいうところの佐賀県庁)を詳しく紹介しています。それを見ると、中央から送られてくる国司(今でいうところの佐賀県知事)が絶大な力を持っていたことがよくわかります。国府跡の近くには国分寺跡、国分尼寺跡がありますが、総社は廃絶しているようです。国府跡から国分尼寺跡、国分寺跡を通る細道は古代西海道です。日本中の旧街道をめぐっているカソリは、「おー、これが!」と、感動してしまうのでした。●佐賀から背振山地の観音峠を越えて唐津へ。唐津東港からフェリーで壱岐の印通寺港に渡り、壱岐の国府をめぐりました。壱岐の「国府めぐり」は難しいですよ。総社などは地元の方に入口まで案内してもらい、そこから台風で大荒れに荒れた山道を登り、ついに総社の石の祠をみつけたのです。壱岐の郷ノ浦港から対馬の厳原港にフェリーで渡りました。厳原が対馬の国府所在地。対馬市役所は対馬の国府跡に建っています。3年前に来たときは韓国人旅行者であふれかえっていた厳原ですが、今回はまるで吹き消したかのように、韓国人旅行者は消えていました。●対馬からフェリーで福岡に戻ると、肥後の国府(熊本市)、薩摩の国府(薩摩川内市)をめぐり鹿児島へ。鹿児島からは大隅の国府(霧島市)、日向の国府(西都市)、豊後の国府(大分市)、豊前の国府(みやこ町)をめぐって出発点の門司港に戻りました。最後の国府となった豊前の国府は、「京都(みやこ)郡みやこ町」にあります。豊前の国府所在地の旧豊津町は、今は合併してみやこ町になっています。郡名も町名も「みやこ」。すごい地名ではないですか。「ここが豊前国の都ですよ」と高らかに言っているようなものです。整備された国府跡の豊前国府跡公園では毎年、「豊前国府まつり」が開かれています。千何百年もの歴史を越えて、国府は現在でも大いなる誇りなのです。●こうして全国の「国府めぐり」を終えて思うのは、生涯で4000日を旅された偉大なる旅人、民俗学者の宮本常一先生のことです。毎年、1月30日に東京・西国分寺の東福寺で先生を偲ぶ会が催されています。ぼくはいつもは、JR南武線で登戸駅から府中本町駅まで行き、そこでJR武蔵野線に乗りかえて西国分寺駅まで行っています。ところが昨年は時間に余裕があったので、府中本町駅でフラッと降りてみました。いやー、驚きましたね。何と改札口を出たところが武蔵の国府跡。そこには国司の館の復元模型があったのです。府中本町駅で目にしたこのシーンは強烈なインパクトを与えてくれ、「国府めぐり日本一周」をスタートさせる原動力になったのです。「カソリ君、頑張ってやってみたらいい!」と宮本常一先生に声をかけていただき、背中を押してもらったような気がしてならないのです。(賀曽利隆)