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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

『地平線通信』(第24回目)(2011年4月号より)

投稿日:2021年3月5日

 まもなく10年目の3・11を迎えます。2011年3月11日に発生した「東日本大震災」の直後から、ぼくはいたたまれないような気持ちで、「地平線通信」に毎月のように書きました。それら一連の「東日本大震災」の関連原稿をお読みください。それを通して当時の状況が伝われば幸いです。

「東日本大大震災」

●このたびの「東日本大震災」で被災されたみなさまにお見舞い申し上げます。亡くなられた多数の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。3月11日(金)14時26分に発生した「東北地方太平洋沖地震」は、想像を絶する甚大な被害がもたらしました。我が家は神奈川県西部の伊勢原市にありますが、これがマグニチュード9・0という世界最大級の地震のすごさなのでしょう、震源地から何百キロも離れているというのに、びっくりするような揺れで震度5強でした。震源地近くの揺れの激しさはどれほどのものだったでしょうか。●地震発生から4日目に、「地平線会議」の仲間で、ウルトラマラソンのランナーでもある福島県楢葉町在住の渡辺哲さんから電話をもらいました。いわき市内の避難所からの電話でした。渡辺さんは楢葉町の東京電力福島第2原子力発電所の近くに住んでいます。渡辺家は今回の巨大津波に飲み込まれる一歩手前だったとのことですが、猛烈な揺れで家は大きな被害を受けました。それでも渡辺さんは、家族のみなさん全員が無事だったといって喜んでいました。巨大津波に追い討ちをかけるように、今度は東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故。そのため、いわき市内の避難所に強制的に移され、渡辺さんはそこから電話をくれたのです。「すぐにでも家に帰りたいですよ。車ではまったく動けない状態ですが、バイクなら移動できます。バイクの機動力でもって、何とかしたいのです」という渡辺さん。ぼくはそこに東北人特有の強さ、人生に対する前向きな姿勢、そして明るさを感じるのでした。●それにしても「東日本大震災」のすさまじいばかりの被害状況には、もう声もありません。女川や志津川(南三陸町)や陸前高田といった三陸のリアス式海岸の町々がきれいさっぱり消え去っている光景には、思わず我が目を疑いました。ぼくは東北の太平洋岸が大好きで、毎年、バイクで走っています。昨年も「いわき→八戸」をバイクで走りました。それは今回の大地震にともなう巨大津波で徹底的に痛めつけられたエリアに重なります。福島県いわき市の舞子浜の舞子温泉「よこ川荘」に泊まり、相馬市の松川浦の食堂「旭亭」で名物の「あさり御飯」を食べました。宮城県石巻市の牡鹿半島の鮎川では「鯨の刺身」、志津川(南三陸町)の食堂「しお彩」では「まぐろ丼」を食べ、気仙沼市の唐桑半島突端の国民宿舎「からくわ荘」に泊まりました。岩手県の陸前高田市では高田松原を歩き、風光明媚な広田半島の広田崎や黒崎に立ち、海岸近くの民宿「吉田」に泊まりました。宿のご主人、奥さんにはほんとうによくしてもらいました。そして大船渡から釜石、宮古、久慈と北上し、八戸に向かっていったのです。それだけに、各地のあまりの惨状には涙が出るほどです。「なんで、なんで…」。●三陸のリアス式海岸では、いたるところで見上げるような防潮堤を見ました。まるで城砦を見るかのような頑丈な造りでした。岩手県の綾里(大船渡市)や両石(釜石市)、田老(宮古市)などの防潮堤はとくにすごいもので、「まさかあの見上げるような防潮堤を津波が越えるなんて…」と、想像すらできませんでした。それが今回の巨大津波は軽々と防潮堤を乗り越え、町々を飲み込んだのです。綾里漁港を襲った今回の津波は高さ23mとのことです。津波の国内の最高波高としては、明治29年(1896年)の明治三陸地震津波で綾里を襲った38・2mが記録されています。今回の大津波では、それを上回る40・1mの最大波高が綾里湾で記録されています。●ニュースの映像には登場していませんが、松島湾には桂島や野々島、寒風沢島といった有人島が浮かんでいます。島民全部を合わせれば数千人という人口です。ほとんどの島が平坦なので心配です。牡鹿半島の西岸には田代島、網地島の2島があります。この2島も心配です。牡鹿半島の東岸には出島があります。女川から船で渡る島ですが、女川の町自体が壊滅的な被害を受けているので、出島の被害も大きいと思われます。我々日本人が汗水たらして築き上げてきた日本。その日本が一瞬にして崩れ去ってしまった…、そんな思いを強くします。悪夢であってほしいとも思います。今回の地震、津波は桁外れの大きさです。とてつもない数の人命と家が失われました。道路も鉄道も港も町も村も流されました。その中で立ち上がっていくのは大変なことだと思います。我々、日本人は戦後最大の国難に直面しています。しかし日本人は戦後の焼け野原の中から這い上がり、立ち上がった歴史を持っています。今こそもう一度、日本人がひとつになって、一丸となって立ち向かっていけば、きっとこの国難を乗り越えて復興できるものと確信しています。(賀曽利隆)

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