カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

『地平線通信』(第28回目)(2012年3月号より)

投稿日:2021年3月8日

東北の復興をずっと見続けていきたい!

●2月の報告会では江本嘉伸さん、渡辺哲さんとともに前に出て話をさせてもらいました。渡辺さんはこの日のために、わざわざ休みをとって福島県のいわき市から来てくれたのです。感謝、感謝。間もなく東日本大震災から1年ということで現地の様子、福島県の太平洋側の「浜通り」が話題の中心になりました。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故で2重苦、3重苦にあえぐ浜通りですが、原発爆発事故の20キロ圏内ということで、いまだに楢葉町の自宅に戻れない渡辺さんの話には胸が痛くなってしまいました。●2月の報告会の2週間前に、江本さんと一緒にいわき市に行きました。じつは3月の報告会をいわき市で開催したいという江本さんの強い意向があったからです。この1泊2日の「いわき市」は忘れられないものになりました。江本さんを車に乗せて行ったのですが、常磐道で一気に東北に入るのではなく、いわき勿来ICのひとつ手前、関東側の北茨城ICで高速道を降り、大津漁港に行きました。そこでは大地震直後のような惨状を見ました。大津漁港は大津波以上に、大地震にやられていたのです。ぼくは昨年(2011年)、何度となくバイクを走らせ、東北の太平洋岸の全域を見てまわりましたが、このような復興とは縁遠い関東側の被災地を見ていなかったのです。●東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬からは、東北の太平洋岸を見てまわりました。いわき市最大の漁港、小名浜漁港には活気が戻り始めていました。東北最大の水族館「アクアマリン」は奇跡の復活をとげ、かつての人気スポット「いわき・ら・ら・ミュウ」も再開し、そこそこの人を集めて海産物を売っていました。「市場食堂」も店舗を新しくして営業を開始していました。ところが漁港の岸壁で漁師さんたちの話を聞いたとたんに暗い気持ちになります。魚市場は再開されたのですが、水揚げされる魚はほとんどない状態だといいます。小名浜港に水揚げされたというだけで、まったく買い手がつかないのです。風評被害のあまりの大きさに、いいようのない怒りがこみあげてくるのでした。●小名浜から太平洋岸を北上し、大津波で集落が全滅した豊間や薄磯を通り、松林のつづく新舞子浜へ。ここには四倉舞子温泉の温泉旅館「よこ川荘」があります。じつは3月の報告会はここでやろうという話が進んでいたのです。大広間には舞台があり、50人くらいが入れます。「よこ川荘」も大津波で激しくやられましたが、おかみさんの獅子奮迅の活躍で宿の再開へとこぎつけました。そんなおかみさんのお話も聞かせてもらえるし、宿を拠点にして大津波に襲われた被災地を見てまわることもできます。しかし残念ながら、災害復興工事関係の長期滞在者で満室状態がつづいていました。それを知って江本さんは残念がるそぶりも見せず、3月の報告会のいわき市での開催を断念したのです。●その夜はいわき駅前のホテルに泊まりましたが、渡辺哲さんと渡辺さんの弟さんが来てくれました。いわき駅近くの居酒屋に行き、飲みながらお2人の話を聞かせてもらいました。楢葉町役場職員の弟さんの話は印象深いものでした。大地震発生から1ヵ月ほどの間の詳細は、後世に残さなくてはならないものだと強く感じました。楢葉の町役場は会津美里町に移され、町民はいわき市をはじめとして各地に避難しました。そのため楢葉町はバラバラの状態になってしまったのです。原発事故の影響の大さを改めて思い知らされました。原発の爆発事故さえなかったら…。その翌日は渡辺哲さんの案内でいわき市内をまわりました。●ぼくは東日本大震災1年後の3月11日には、東北太平洋岸の全域を見てまわる「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発します。11日の夜は東北太平洋岸最南端、鵜ノ子岬の勿来漁港で野宿する予定です。そこへ渡辺哲さんは来てくれるといいます。昨年(2011年)の東日本大震災2ヵ月後、5月11日の夜の再現です。渡辺さんとは東日本大震災の1年後をおおいに語ろうと思っています。東北の被災地の復興は大変なことです。復興の手かせ足かせになっている瓦礫撤去ひとつをとってみても、その受け入れにはあちこちで「絶対反対!」の嵐が吹き荒れています。東北の復興はこれから先、5年、10年…と、息の長い長期戦になりますが、その復興していく東北の姿をこれからもずっと見つづけていきたいと思っています。(賀曽利隆)

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