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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

ジクサー150分割日本一周[209]

投稿日:2021年6月1日

北海道一周編 27(2020年4月13日)

蝦夷地探検家の松浦武四郎

静内の真歌公園の「松浦武四郎記念碑」

静内の真歌公園の「松浦武四郎記念碑」

小平の国道232号の道の駅「おびら鰊番屋」の前に建つ松浦武四郎像

小平の国道232号の道の駅「おびら鰊番屋」の前に建つ松浦武四郎像

 静内の真歌公園には、幕末の探検家、松浦武四郎の記念碑が建っている。松浦武四郎の6度に渡る蝦夷地踏査の足跡は、新たな北海道遺産に選定された。

 松浦武四郎は文化15年(1818年)、三重県の三雲町(現松坂市)で生まれた。弘化2年(1845)以来、蝦夷地の探検をおこない、蝦夷地の内陸部の全容を明らかにした。松浦武四郎の書き著した膨大な日誌や地図は極めて精度が高いものだといわれている。

 松浦武四郎の銅像は天塩(てしお)と小平(おびら)に建っているが、そのうちの小平のものを見てもらおう。国道232号の道の駅「おびら鰊番屋」の前に建っている。

 静内の真歌公園の「松浦武四郎記念碑」には、「新ひだか町と松浦武四郎」と題して次のように記されている。

 松浦武四郎は、この静内地方には3度訪れて詳細な記録を残した。弘化2年(1845年)には海岸沿いに歩き、地形、産物、歴史を記録した。安政3年(1856年)には新ひだか町の各地の特色に目を向け、安政5年(1658年)の調査ではシベチャリ川、門別川、三石川、鳧舞川を遡ってすべてのコタンを訪れ、その地に住むアイヌ民族の名を後世に伝えるとともに、「心情の率直で淳朴なことはたとえようがない。世の方々にアイヌ民族の美しい心を知っていただきたい」と絶賛した。

 アイヌ民族に導かれて蝦夷地内陸部深くまで踏査した松浦武四郎の150冊を超える調査記録には、随所にアイヌ民族が大地で育んだ生活の知恵と文化が記され、残された地図には9800ものアイヌ語地名が収められている。

 明治2年(1869年)、蝦夷地を改称するにあたり、松浦武四郎はその名を「北加伊道」と撰定した。「ここはアイヌ民族が暮らす大地」という思いを込めたものである。

 北海道の名付け親、松浦武四郎が新ひだか町を訪れてから150年以上が経過したが、我々の祖先と松浦武四郎の絆は今なお燦然と輝いている。我々は新ひだか町と松浦武四郎の民族を越えた交流と、共になしえた業績を讃え、ここアイヌ民族の聖なる地、真歌の丘に記念碑を建立する。

 明治新政府は松浦武四郎の建議にもとづき、蝦夷地を「北海道」にした。「五畿七道」の東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道にならっての北海道で、日本は「五畿八道」になった。北海道には石狩、後志(しりべし)、渡島(おしま)、胆振(いぶり)、日高、十勝、釧路、根室、北見、天塩(てしお)の10ヵ国が置かれ、後に千島が加わり、11ヵ国になった。

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