カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

環日本海ツーリング[148]番外編

投稿日:2012年8月12日

韓国往復縦断2005(17)

日本海の海の幸を満喫して我が家伊勢原へ

 伊根温泉「桜泉閣」の朝湯に入り、湯から上がると朝食。温泉卵、煮物、酢の物、漬物、海苔のほかに一夜干しのカレーの焼き魚が出た。これがうまかった!
 伊根温泉を出発。いよいよスズキDR-Z400Sでの旅の最後の日だ。
「いくぞDRよ!」
 海岸沿いの道を走り、「浦島太郎伝説」の宇良神社を参拝し、「徐福渡来の地」といわれる新井崎の新井崎神社を参拝し、伊根湾沿いに舟屋の並ぶ伊根の集落に入っていく。若狭湾の定置網でのブリ漁で知られる伊根はじつに興味深いところだ。

伊根温泉「桜泉閣」の朝食
一夜干しのカレー


伊根の舟屋


 国道178号を南下。丹後の一宮、籠神社を参拝し、そのまま歩いてリフトに乗って傘松公園に登る。そこから日本三景の天橋立を見下ろした。絶景だ!
 宮津を通り、舞鶴に到着。「とれとれセンター」では若狭湾の海の幸を満喫。まずは生ガキを食べる。つづいてイカ、エビ、サザエ、ホタテの海鮮焼きだ。これら全部を合わせて1500円。鮮度抜群の海鮮焼きだ。

丹後の一宮、籠神社を参拝
傘松公園から見下ろす天橋立


舞鶴の「とれとれセンター」の生ガキ
イカ、エビ、サザエ、ホタテの海鮮焼き


焼けてきました!


 舞鶴では引揚記念公園内にある「引揚記念館」を見学した。ここには数多くの戦後の引揚者の資料が展示されている。引揚者を乗せた引揚船といえば「興安丸」だ。
 下関と釜山を結ぶ関釜連絡船の新鋭船だった「興安丸」による引揚者数は17891名。全部で22回の引揚船としての航海をした。中国大陸や朝鮮半島、シベリア、樺太からの引揚者は舞鶴港に上陸。舞鶴港の「岸壁の母」は有名な話だ。
 ところで関釜連絡船は昭和10年代に入り、日本の大陸への進出が加速度的になると、次々に新造船が造られていく。昭和11年には当時の日本としては最優秀船として海運界から注目された7000トン級の「金剛丸」型が就航した。さらに昭和17年には8000トン級の「天山丸」型が就航。「興安丸」はその第2船目として造られた。そのあとに「崑崙丸」も就航している。
 これら関釜連絡船の新鋭船の船名を見ると、当時の日本の大陸進出に賭けた想いを見ることができる。「金剛丸」は朝鮮半島の金剛山に由来している。「天山丸」は中央アジアの天山山脈に由来している。「興安丸」は北東アジアの大興安嶺山脈に由来している。そして「崑崙丸」はヒマラヤ山脈の北側に延びる崑崙山脈に由来している。
 興安丸のほか英彦丸(6906トン)、雲仙丸(3140トン)が引揚船として活躍したという。
 舞鶴からは国道27号を行く。京都府から福井県に入り、小浜を通り、敦賀へ。
 16時、敦賀に到着。下関から800キロ。敦賀では「日本海さかな街」で「海鮮丼」(1580円)を食べた。タイ、マグロ、ハマチ、アジ、ヒラメ、サバ、サケ、タコ、イカ、ウナギ、イクラと何と11種もの具がのっていた。これを最後に敦賀ICで北陸道に入り、福井、金沢、富山と走り、新潟県に入る。糸魚川、直江津と過ぎ、米山SAでDRを止めた。ここで夜の日本海を見た。それが最後の日本海になった。

敦賀の「日本海おさかな街」の「海鮮丼」
北陸道の敦賀ICに到着。さー、東京へ!


 長岡JCTで北陸道から関越道に入り、東京へ。環8経由で東名に入り、伊勢原の我が家に着く頃には白々と夜が明けかかっていた。

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