カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本巡礼[330]

投稿日:2016年3月29日

諏訪湖を見下ろす

西国三十三ヵ所めぐり 2009年6月1日

贄川宿に入っていく

贄川宿に入っていく

復元された贄川関所

復元された贄川関所

本山宿の家並み

本山宿の家並み

本山宿の家並み

本山宿の家並み

ここが「本山そばの里」

ここが「本山そばの里」

「本山そばの里」の「盛りそば」と「そばがき」(左)

「本山そばの里」の「盛りそば」と「そばがき」(左)

洗馬宿の追分。中山道(右)と善光寺街道が分岐する

洗馬宿の追分。中山道(右)と善光寺街道が分岐する

善光寺街道で松本へ。「国宝四城」の松本城を見る

善光寺街道で松本へ。「国宝四城」の松本城を見る

塩尻宿を行く

塩尻宿を行く

 中山道の奈良井宿を出発。

 次の贄川宿には「贄川関所」がある。案内板には次のように書かれている。

源義仲七代目の孫、讃岐守家村の建武2年(1334年)頃、贄川に関所を設け、4男家光に守らせた。贄川関所は木曽谷の北関門として軍事的にも重要な役目を果たした。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際は、山村良安の家臣原彦左衛門、荻原九太夫がこの関の警備に当たった。元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣の際は、荻原九太夫、千村大炊左衛門、小川源兵衛がこの関所を守り、酒井左衛門尉の家臣8人の逃亡者を捕らえた。江戸時代は木曽代官の山村氏が臣下をして贄川関を守らせ、特に婦女の通用ならびに白木の搬出を厳しく検査した。

 復元された贄川関所の「木曽考古館」を見学。ここには贄川関所関連の資料のほかに、簗場遺跡で発掘された土器や石器類が展示されている。

 贄川宿の次の本山宿は日本の「切りそば」発祥の地。ということで宿場内の「本山そばの里」で「盛りそば」(870円)と「そばがき」(420円)を食べた。自家製粉のソバ粉は挽きたて、そばは打ちたて、茹でたてで、「3たて」がここの自慢。ソバ粉を熱湯でかいた「そばがき」は、我々日本人の元々のそばの食べ方だった。それを麺に打って現在のような「そば切り」を考案したのは、恐らく16世紀の後半から17世紀の前半にかけてのことだろう。その発祥の地が本山宿なのだという。本山宿で考案されたそば切りは中山道を通してあっというまに日本中に広まった。うどんや素麺の麺づくりの下地があってのそば切りの考案であったことは間違いないところだが、「そば切り」はつくるのに手間がかかるのでハレ(非日常)の日の食べ物、それに対して簡単につくれる「そばがき」はケ(日常)の食べ物だった。

 本山宿の次の洗馬宿は中山道と善光寺街道の追分。中山道は右へ、善光寺街道は左へ行く。ここでは善光寺街道で松本まで行き、日本の「国宝四城」のひとつ、松本城を見て、洗馬宿に戻った。機動力抜群のアドレスなので、こういうことが楽々できる。

 洗馬宿から塩尻宿へ。そして塩尻峠を越えて下諏訪宿に到着。諏訪大社下社の秋宮を参拝すると、隣接する下諏訪温泉「ホテル山王閣」に泊まった。大浴場の湯につかりながら夕暮れの諏訪湖と湖畔の町並みを見下ろした。「お〜、絶景湯!」。湯から上がるとレストランでの夕食。生ビールをキューッと飲み干したあとで夕食をいただく。天ぷら、茶碗蒸し、刺身の盛り合わせ、信州そば、諏訪湖産小魚のフライ、凍み豆腐、肉鍋、湯葉のお吸い物…と、「ホテル山王閣」の夕食はすごくいい。食べ終わるともう一度、大浴場の湯につかり、諏訪盆地の夜景を見るのだった。

塩尻宿の本陣跡国道20号の塩尻峠塩尻峠から見下ろす諏訪の町並み

塩尻宿の本陣跡 国道20号の塩尻峠 塩尻峠から見下ろす諏訪の町並み

諏訪大社を参拝下諏訪温泉「ホテル山王閣」に泊まる下諏訪温泉「ホテル山王閣」の夕食

諏訪大社を参拝 下諏訪温泉「ホテル山王閣」に泊まる 下諏訪温泉「ホテル山王閣」の夕食

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