カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[18]

投稿日:2016年8月20日

義経ゆかりの寺を参拝

福島県飯坂温泉/2009年
月の輪の渡しを越えて、瀬の上という宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて、尋ねたづね行くに、丸山というに尋ねあたる。これ、庄司が旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落とし、またかたわらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞えば、ここに義経の太刀・弁慶の笈をとどめて什物とす。

  笈も太刀も五月に飾れ紙幟

『おくのほそ道』

 芭蕉は文知摺石を見たあと、月ノ輪の渡しで阿武隈川を渡り、奥州街道の瀬の上宿に出た。そこから飯塚に向かった。飯塚というのは今の飯坂のこと。ここに出てくる古寺は飯坂の名刹、医王寺のことである。

 カソリは文知摺観音からいったん福島駅前に戻ったあと、再度、出発。スズキST250で国道4号を北に走り、奥州街道の瀬の上宿へ。そこからは県道155号を西へ。この道で芭蕉は医王寺に向かった。

 JR東北本線、東北新幹線を横切り、福島交通の飯坂線の線路を渡り、医王寺へ。

 古木の杉並木が寺の歴史を感じさせる。この杉並木の奥に義経の忠臣、佐藤継信・忠信の墓所がある。兄弟の父、佐藤元治(基治)と母、乙和の墓もある。

 平安後期、信夫荘は平泉の藤原秀衡の支配下にあって、佐藤元治が庄司としてこの地を治めていた。

 佐藤継信・忠信の兄弟は義経の家臣として奮戦。継信は源平合戦の屋島の戦いで戦死した。忠信は、頼朝に離反した義経とともに吉野に隠れ、追っ手に追われたときは身代わりになって救った。その後、京都に潜んでいるところを発見されて自害した。

 芭蕉は「義経記」を熱読していたので、義経ゆかりの寺を参拝するのを大きな楽しみにしていた。それで医王寺にやってきたのだ。芭蕉が「袂をぬらしぬ」と感動して書いているのは、継信、忠信兄弟の嫁のこと。2人の嫁は、息子2人を失って悲しむ姑、乙和を慰めるため、武具をつけて夫の姿に扮し、元気づけたという。

 瀬の上宿から飯塚(飯坂)までの行程は、曽良の「随行日記」によると、次ぎのようなものになっている。

瀬ノ上ヨリ佐馬野へ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入、西ノ方へ行、堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ、兄弟のハタザホヲサシタレバはた出シト云竹有。毎年、弐本づつ同じ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。福嶋ヨリ弐里、桑折ヨリモ弐里、瀬ノ上ヨリ壱里半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有、湯有。村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福嶋ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可行。上リニハ桑折・飯坂・佐野場・福嶋ト出タル由。昼ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿、湯ニ入。

 医王寺のことが細かく書かれているが、医王寺から飯坂温泉に行き、芭蕉はそこでひと晩、泊まっている。

福島駅の西口を出発

▲福島駅の西口を出発

医王寺の案内図

▲医王寺の案内図

医王寺の杉並木

▲医王寺の杉並木

医王寺の本堂

▲医王寺の本堂

医王寺の芭蕉句碑

▲医王寺の芭蕉句碑

医王寺のシラカシは天然記念物

▲医王寺のシラカシは天然記念物

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