カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

奥の細道紀行[19]

投稿日:2016年8月22日

芭蕉と同じ湯につかる

福島県飯坂温泉/2009年
 五月朔日のことなり。その夜、飯塚に泊まる。温泉あれば湯に入りて宿借るに、土座に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、囲炉裏の火かげに寝所を設けて臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられて眠らず、持病さえおこりて、消え入るばかりになん。短夜の空もやうやう明くれば、また旅立ちぬ。なほ夜のなごり、心進まず。馬借りて桑折の駅に出づる。遥かなる行末をかかへて、かかる病おぼつかなしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと、気力いささかとり直し、道縦横に踏んで、伊達の大木戸を越す。

『おくのほそ道』

 芭蕉は医王寺の参拝を終えると、飯坂温泉へ。飯塚とあるのは飯坂のこと。そこでひと晩、泊まっている。

 当時の温泉は内湯はなく、外湯方式。つまり宿に泊まって外湯の共同浴場に入りに行くという方式だった。今でも東北ではその方式が、たとえば青森県の温湯温泉のように、色濃く残っているところもある。

 飯坂温泉は今は摺上川の両岸に温泉宿が建ち並んでいるが、当時の宿は「鯖湖湯」の周辺にあっただけ。ということで芭蕉は「鯖湖湯」に入った可能性がきわめて高い。

「鯖湖湯」は飯坂温泉発祥の地だ。

 この日は夕方から雨になったが、芭蕉にとってはなんとも辛い夜になった。

 宿は粗末なもので、土間に筵を敷いて寝るというもの(これは以前の日本では当たり前のこと)。おまけに、かなり激しい雨だったようで雨漏りがする。

 それに追い討ちをかけるように蚤にやられ、プーン、プーンと飛びまわる蚊にさんざんやられる。旅の辛さがじつによく伝わってくる。

 ほとんど眠れないまま夜明けを迎え、飯坂から桑折へと向かっていく…。

 カソリはそんな芭蕉の足跡を追って医王寺から飯坂温泉へ。

 福島交通飯坂線の終点、飯坂温泉駅でスズキST250を停めた。駅舎に隣りあったコンビニでカンコーヒーを飲み、ひと息入れたところで、駅周辺をプラプラ歩く。

 駅前には芭蕉像が建っている。

 芭蕉像前を流れる摺上川の両側には温泉宿が建ち並んでいる。

 今では十綱橋で何なく渡れる摺上川だが、芭蕉の頃は大変だった。急流の摺上川の両側の杭木に渡した綱をたぐって舟を進める「十綱の渡し」で川を越えた。

 飯坂温泉では、さらにST250で温泉街をひとまわりしたところで、共同浴場「鯖湖湯」の熱湯に入った。湯につかると、あっというまに体は真っ赤になったが、思わず飯坂温泉の共同浴場めぐりのシーンが目に浮かんだ。

 前年の2008年には飯坂温泉の7ヵ所の共同浴場めぐりをしたが、ほかの湯は「鯖湖湯」よりもさらに熱い。湯温50度の湯に入ったときは、思わず悲鳴を上げてしまった。

 名残おしい飯坂温泉に別れを告げ、奥州街道の桑折宿へ。

 桑折には伊達郡の郡役所が残っている。見学もできる。庭には芭蕉像が建っている。

 桑折の町中を走り抜けていくと追分に到着。ここはきわめて重要な追分で、東北の二大街道の奥州街道と羽州街道が分岐。直進が奥州街道で、左に入っていく道が羽州街道になる。

 奥州街道はそのまま陸奥国を北上し、青森から津軽半島の三厩へ。さらに津軽海峡を越えて蝦夷の松前に通じている。羽州街道は小坂峠、金山峠を越えて羽州に入り、青森の先の油川で奥州街道と合流する。

 芭蕉は桑折宿から奥州街道をたどり、国見峠を越えて白石に向かっていった。

飯坂温泉駅前の芭蕉像

▲飯坂温泉駅前の芭蕉像

飯坂温泉を流れる摺上川

▲飯坂温泉を流れる摺上川

飯坂温泉の摺上川沿いの温泉宿

▲飯坂温泉の摺上川沿いの温泉宿

飯坂温泉の共同浴場「鯖湖湯」

▲飯坂温泉の共同浴場「鯖湖湯」

桑折に残る伊達郡役所

▲桑折に残る伊達郡役所

奥州街道の桑折宿を行く

▲奥州街道の桑折宿を行く

桑折宿の追分

▲桑折宿の追分

桑折宿の追分の碑

▲桑折宿の追分の碑

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