奥の細道紀行[69]
投稿日:2016年12月7日
一笑の墓に参る
倶利伽羅峠を越えて芭蕉が到着した金沢は、日本一の大藩、加賀百万石の城下町。江戸時代の金沢は繁栄を謳歌し、江戸、大坂、京都、名古屋に次ぐ大都市だった。
芭蕉と同じように倶利伽羅峠を越えて金沢にやってきたカソリは、まずは金沢のシンボルの金沢城に行く。石川門から入り、そのあと「日本三名園」のひとつ、兼六園を歩いた。金沢城は犀川と浅野川の2本の川にはさまれた小立野台の先端にある。この2本の川が天然の堀の役目を果たす要害の地であった。
金沢の町には城下町特有のT字路やクランク形の鉤型路、袋小路が多く残っている。道幅も狭い。そのような金沢をスズキST250で走っているいと、まるで迷路を行くようで、しばしば道を間違えた。
犀川、浅野川を越えた外側には寺院を集めて寺町がつくられている。寺町は城下町防衛の最前線といったところで、このように金沢は敵の侵入を防ぐという戦略本位の町なのである。
北国街道が城下町を貫いている。浅野川を渡って金沢に入ると、武蔵辻、香林坊、片町と繁華街を通り、犀川を渡っていく。北国街道沿いには商人町をつくり、裏町には職人町をつくった。
明治以降、金沢には大火もなく、戦災で焼かれることもなく、藩政時代の典型的な城下町の姿が現在まで残されている。
卯の花山・倶利伽羅が谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂より通う商人何処という者あり。それが旅宿をともにす。
一笑という者は、この道に好ける名のほのぼの聞こえて、世に知る人もはべりしに、去年の冬葉早世したりとて、その兄追善を催すに、
塚も動けわが泣く声は秋の風
ある草庵にいざなわれて
秋涼し手ごとにむけや爪茄子
途中吟
あかあかと日はつれなくも秋の風
加越国境の倶利伽羅峠を越えた芭蕉は北国街道の津幡宿に下り、そこから浅野川にかかる浅野川大橋を渡って金沢城下に入った。
「京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ。即刻、竹雀・牧童同道シテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由」
と、曽良の「随行日記」にあるように、尾張町の旅籠京屋吉兵衛に泊った。
宿に着くとすぐに俳人の竹雀と一笑に連絡すると、2人がやってきて、一笑は前の年の12月6日に若くして死んだと聞かされた。
一笑の死を知らなかった芭蕉の驚きと悲しみは大きく、それが「塚も動けわが泣く声は秋の風」になっている。
その後、芭蕉は金沢では8日、滞在している。
金沢の中心街、香林坊から北国街道の国道157号で片町の交差点を通り、犀川にかかる犀川大橋を渡る。その一帯は冒頭でもふれたような寺町になっている。その一角に願念寺がある。一笑の墓のある寺だ。
寺の入口には芭蕉の「塚も動け…」の句碑が建っている。
芭蕉はこの旅で一笑との出会いを大きな楽しみにしていた。一笑もそれを待ち望んでいた。そのような願いがかなわなかった芭蕉は、一笑の墓前に「塚も動け…」の句を手向けた。この句は金沢滞在中に、一笑の兄が願念寺で主催した追善の句会で詠んだものだといわれている。このような歴史を秘めた願念寺だが、今はひっそりと静まりかえり、境内には人影もなかった。
金沢では犀川河口の町、金石(かないわ)に行った。江戸時代には金沢の外港として栄えた金石は、当時は宮ノ腰と呼ばれた。北国街道の武蔵辻で分かれ、宮ノ腰に通じる宮ノ腰往還は、金沢にとってはきわめて重要な街道だった。
宮ノ腰は江戸時代の豪商、銭屋五兵衛、通称「銭五」の本拠地でもあった。海運で巨額の富を成した銭五は最盛期には青森、弘前、松前、箱館(函館)、長崎、兵庫、大坂(大阪)、江戸に支店を置いた。当時としては日本有数の総合商社といっていい。幕府の目をかすめ、ロシア船やアメリカ船と密貿易もしていた。
銭五は「海の百万石」といわれたほどの繁栄を謳歌し、北は樺太から南はジャワ島までの広い世界を相手に商売をした。そして莫大な利益を得た。
しかしその栄華は長くはつづかなかった。銭五から多額の借金をした加賀藩の派閥争いに巻き込まれ、一代の豪商、銭屋五兵衛は一族もろとも、あえない最期をとげてしまう。金石の「銭屋五兵衛記念館」を見学すると銭五の生涯がよくわかるし、海岸近くの「銭五公園」には銭屋五兵衛の銅像が建っている。