奥の細道紀行[70]
投稿日:2016年12月9日
源平の時代にまで想いを馳せる
加賀藩の城下町、金沢をあとにした芭蕉は北国街道で野々市、松任を通り小松へ。
小松の小松城は加賀藩三代目藩主、前田利常の隠居城。徳川幕府は一国一城の制限を設けたが、小松城はその例外として認められた。
小松という所にて
しをらしき名や小松吹く萩薄
この所の多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往昔源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまうとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打つたり。実盛討死の後、木曽義仲願状に添えて、この社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす
芭蕉の足跡を追って金沢を出発。スズキのST250を走らせ、国道157号→国道8号で小松へ。
金沢とは町つづきの野々市は北国街道の宿場町。ここでは「郷土資料館」を見学したが、旧北国街道沿いには何軒もの旧家が残っている。つづいて北国街道の松任宿、寺井宿と通り、小松に近づくと、稲田の向こうに白山が見えてくる。
古い町屋の残る小松の町に入ると、芭蕉がひと晩泊った旅籠「近江屋」のあった京町から多太神社へ。鳥居をくぐるとすぐに目に入るのは実盛の兜の石像だ。これが『おくのほそ道』でいうところの「実盛が甲」。木曽義仲がこの神社に奉納した実盛の兜の石像だ。
実盛は木曽義仲の父親が討たれたとき、2歳だった義仲を殺すように命じられていたが、不憫に思い、木曽の地に逃がした。
時が流れ、その後、平家が北陸に義仲を攻めたとき、実盛は平家軍に属していた。加賀の篠原の戦いで実盛は源氏軍に討たれた。義仲はその死を悼み、実盛が身につけていた兜などを多太神社に奉納した。かつては義仲の命を救った実盛、その命の恩人の実盛を討った義仲。「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句には、この2人の武将への、芭蕉の深い憐憫の情がこめられている。
多太神社の境内には芭蕉像と並んで実盛像が建っている。
この一文ではじまる「実盛公縁起」が実盛像の隣りにある。
小松の多太神社を参拝すると、近くの「今江温泉元湯」(入浴料370円)に入った。湯につかりながら、「奥の細道」よりも遥かに遠い時代、源平の戦いの時代にまで想いを馳せるのだった。
「金沢→小松」間の芭蕉の行程は、曽良の「随行日記」では次のようになっている。
廿四日 | 快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。雲口・一泉・徳子等、野々市迄送ル。餅・酒等持参。申ノ上刻、小松ニ着。竹意同道故、近江屋ト云ニ宿ス。北枝随之。夜中、雨降ル。 |
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廿五日 | 快晴。欲小松立。所衆聞キテ以北枝留。立松寺ヘ移ル。多田八幡ヘ詣テ、真盛が甲冑・木曽願書ヲ拝ム。終テ山王神主藤井伊豆宅ヘ行、有会。終而此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。 |
廿六日 | 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生ノ方ヘ被招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終而帰ル。庚申也。 |
ここで多田八幡とあるのは多太神社、真盛とあるのは実盛のことである。芭蕉は25日には小松を出発しようとしたのだが、地元の多くの人たちに引きとめられ、さらにもう2日、小松に滞在したことがわかる。