奥の細道紀行[83]
投稿日:2017年1月9日
生家を訪ねる
大垣の「奥の細道むすびの地」碑前からスズキST250を走らせ、国道258号で桑名へ。桑名からは国道1号を南下。四日市の中心街を走り抜けた「日永の追分」が、東海道と伊勢神宮に通じる参宮街道の分岐点になっている。
伊勢神宮に向かう前に、国道1号→国道25号で芭蕉の故郷の伊賀上野まで行く。
伊賀上野に到着すると、伊賀鉄道の上野市駅前でバイクを停める。さすが芭蕉の故郷だけあって、そこには見上げるような大きな芭蕉像が建っている。
伊賀上野の中心の上野市駅だが、現在の市名は伊賀市になっている。
2004年11月の上野市と伊賀町、阿山町、青山町、大山田村、島ヶ原村の6市町村の合併で伊賀市が誕生した。これで旧伊賀国は伊賀市と名張市の2市だけになった。
さらにいえば三重県は伊勢、伊賀、志摩の3国と紀伊の一部からなっているが、志摩も伊賀同様、2004年10月の浜島、大王、志摩、阿児、磯部の5町の合併で志摩市が誕生し、旧志摩国は志摩市と鳥羽市の2市だけになった。
このように平成の大合併で日本地図はすっかり塗り変ってしまったが、ここへきて、やっとひと段落といったところだ。
伊賀盆地の中心地、伊賀上野は藤堂高虎の城下町。今でも碁盤目状の町割りが残っている。上野市駅近くの上野公園には、上野のシンボル、上野城の天守閣や「高石垣」がある。その上野公園に芭蕉の生誕300年を記念して、戦時中の昭和17年(1942年)に「俳聖殿」が建てられた。
木造重層の「俳聖殿」の屋根は上下層とも檜皮葺。その外観は、芭蕉の旅姿を表しているという。上層の屋根は芭蕉の笠、その下部が顔になっている。下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、堂が胴体で、回廊の柱は杖と脚になっているという。堂内には芭蕉の等身大の座像が置かれている。伊賀焼の座像だ。堂内は公開されていないようだが、芭蕉像はのぞき見ることができた。
上野公園内には「芭蕉翁記念館」もある。入口の芭蕉像は上野市駅前に建つ芭蕉像の原型。ここでは芭蕉の生涯がよくわかる。
芭蕉は念願の長崎への旅の途中、元禄7年(1694年)10月12日(新暦11月28日)、大坂(大阪)南御堂の花屋仁ェ門の裏座敷で51年の生涯を終えた。数人の愛弟子に囲まれ、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
の辞世の句を残し、彼岸の世界へと旅立った。遺骸は大津の義仲寺に葬られた。
芭蕉の旅の足跡を見ると、めぼしい旅はほとんどが40代に集中していることがわかる。野ざらし紀行41歳、鹿島詣44歳、笈の小文44歳〜45歳、更級紀行45歳、そして46歳のときの「奥の細道」へとつづく。この芭蕉旅の一覧を見て、人生の中で占める「40代」の重さというものを教えられる。
つづいて芭蕉の生家へ。芭蕉は正保元年(1644年)、ここで生まれた。父は与左衛門、母は藤堂氏の移封にともない伊予の宇和島からやってきた桃地氏の娘だという。与左衛門夫婦には2男4女があり、長男は半左衛門命清で次男が芭蕉になる。幼名は金作で、長じて宗房を名乗った。通称は甚七郎で忠右衛門の名もあった。
芭蕉の生家の角には、
古里や臍の緒に泣く年の暮
の句碑が建っている。
芭蕉の足跡を追ってのカソリの旅はつづく。伊賀上野から四日市の「日永の追分」に戻ると、参宮街道で伊勢へ。伊勢神宮の外宮→内宮とまわる。内宮の拝所のすぐ隣りが、平成25年の式年遷宮の敷地。次回の式年遷宮は第62回目になるという。20年に1度、1300年間にわたって連綿とつづけられてきた式年遷宮。芭蕉は江戸初期の元禄時代の式年遷宮を見ている。
伊勢神宮の参拝を終えると、門前で「赤福」を食べ東京へ。東海道を走り、名古屋では宮宿の「七里の渡し跡」に寄り、浜松では「かねりん」の「うな重」を食べ、2009年9月9日の15時に東京の日本橋に到着した。出発してから26日目に戻ってきた。その間の走行距離は8624キロ。スズキST250はノントラブルで走りきってくれた。
「ST250よ、ありがとう!」
最後に日本橋から深川へ。森下の芭蕉稲荷(芭蕉庵跡)に手を合わせ、仙台堀川脇の「芭蕉旅立ちの地」の芭蕉像に「帰ってきましたよ!」と報告した。
これで終った…。(了)