番外編 義経北行伝説
投稿日:2009年12月2日
平泉から神威岬、そして樺太へ
前回の「北海道の馬文化」では、日高・平取の義経神社は「競馬の神様」にもなっているといったが、毎年2月の初午の日、ここでおこなわれる「初午祭」の「矢刺の神事」には大勢の馬牧場の関係者や調教師、馬主など馬に携わるみなさんが参列する。
「矢刺の神事」は馬上からその年の凶方に向かって破魔矢を3本放ち、悪魔を降伏させる神事。その際に放たれた矢を拾うと幸運が訪れるということで、参拝者たちは我れ先にと争って矢を拾う。
義経神社の祭神は義経。これは義経が騎馬武者であり、馬を大事にしたという故事にちなんだ「愛馬息災」、「先勝祈願」の神事なのである。
義経神社の境内には「義経資料館」がある。
義経神社は寛政10年(1798年)、幕府の命を受けた蝦夷地探検家の近藤重蔵がこの地に「義経北行伝説」の残っていることを知り、翌寛政11年に江戸の仏師、橋善啓に義経像を彫らせ、この地のアイヌに祀らせたのがはじまりだという。
「義経北行伝説」はきわめて興味深い。伝説の地は平取のみならず、北海道の各地に点在している。
以前バイク誌の取材で東北の「義経北行伝説」の地を追ったことがあるので、それを紹介しよう。
時代を超越して、日本人の心の琴線に響く義経。だが平家を倒し、源氏に大勝利をもたらした立役者も、兄頼朝の反感をかって都を追われてしまう。義経・弁慶の主従は命がけで奥州・平泉に逃げ落ち、奥州の雄、藤原氏三代目の秀衡の庇護を受けたのだ。
しかし天下を手中におさめた頼朝の義経追求の手は厳しさを増した。
秀衡の死後、その子泰衡は頼朝を恐れ、義経一家が居を構えていた北上川を見下ろす高館を急襲。弁慶は無数の矢を射られ、仁王立ちになって死んだ。義経は妻子とともに自害した。文治5年(1189年)4月30日のことだった。
こうして奥州・平泉の地で最期をとげた悲劇の英雄、義経だが、なんとも不思議なことに、平泉以北の東北各地には、義経・弁慶の主従が北へ北へと逃げのびていったという「義経北行伝説」の地が、点々とつづき、残されている。
それは義経や弁慶をまつる神社や寺だったり、義経・弁慶が泊まったという民家だったり、義経・弁慶が入った風呂だったり。その「義経北行」伝説の地を結んでいくと、1本のきれいな線になって北上山地を横断し、三陸海岸から八戸、青森へ、さらには津軽半島の三厩へとつづいている。三厩には義経寺がある。
「義経北行伝説」はさらに北へとつづく。
津軽海峡を越え、義経・弁慶の主従は対岸の白神から日高の平取へ。
平取には義経神社があり、今でも人々の篤い信仰を集めている。
伝説では平取町二風谷のアイヌ酋長の娘、チャレンカとは激しい恋に落ちたという。
積丹半島に近い日本海側の弁慶岬には、弁慶の銅像が建っている。高下駄をはいて、ナギナタを右手に持っている。岬の近くには「弁慶の土俵跡」が残されている。義経主従がこの地に滞在したとき、地元のアイヌと相撲をとった土俵跡なのだという。弁慶のはいた下駄をまつる弁慶堂もある。
義経を守り抜いた弁慶の体力と気力を神業と信じ、弁慶を守護神としてあがめる風習がこの地には強く残っている。弁慶岬の弁慶像はそのシンボルなのだ。
弁慶岬の北の雷電岬には、「刀掛岩」と呼ばれる大岩がある。それも義経主従がこの地で休憩したときに、弁慶の刀があまりにも大きくて置くことができず、それではと「エイッ」とばかりにひねってつくった岩の刀掛なのだという。「薪積岩」もある。弁慶が背負っていた薪をおろした所が岩に変ったのだという。
義経主従は積丹半島の神威岬から樺太へと船出した。そこからアムール川の河口に渡っていったという。二風谷のアイヌの酋長の娘チャレンカは、義経と出会ってからというもの、すっかり恋のとりこになり、義経にひと目会いたくって神威岬までやってきた。だが義経一行はすでに船出したあとで、嘆き悲しんだチャレンカは海に身を投げた。彼女の体は岬先端の海に浮かぶ神威岩に変ったという。
なんとも壮大で、ロマンに満ちあふれた「義経北行伝説」だが、これは根も葉もないつくり話とは違うと思う。でなければ、これだけキレイな線になって、その線上にこれだけの伝説の地が残るはずがない。
義経・弁慶が生きていたらよかったのに…という日本人の判官贔屓がそれに拍車をかけ、より大きな伝説になったのではないかとぼくはそう思っている。
ということで、カソリ&迫坪(カメラマン)のコンビは「義経北行伝説」を追って北へと旅立ち、「平泉→盛岡」間を走った。
午前5時、東京を出発。カソリはスズキDR250S、迫坪さんはカワサキKDX250Rを走らせ、東北道を北上。平泉前沢ICで高速を降り、10時30分、JR東北本線の平泉駅前に到着した。
まずは駅前食堂「芭蕉館」で名物のわんこそばを食べ、パワーをつけて「義経北行伝説」の第一歩、高館へと向かった。
義経最期の地の高館は、平泉駅からわずかな距離だ。石段を登り、高台に立つと、すばらしい風景が目の前に広がる。足もとを北上川が流れ、対岸の稲田の向こうには北上山地のゆるやかな山並みが連なっている。その一番手前の山が束稲山だ。
鎌倉幕府成立前の文治5年(1189年)、義経はこの館で自刃したことになっているが、「義経北行伝説」ではそうではない。自刃したのは義経の影武者、杉目太郎行信で、義経・弁慶の主従はその1年前に高館から北上川を渡り、束稲山を越え、長い長い北への旅に出たという。(略)
水沢から北上川を渡って江刺へ。そこではさんざん苦労して「弁慶屋敷」を探し当てた。平泉を脱出した義経主従は束稲山を越えたあと、ここに立ち寄り、粟5升を炊いてもらい、空腹を満たしたという。
古い家並みの残る江刺の中心街からは、人首というちょっと怖ろしげな地名の集落を通り、姥石峠を越える。ここも「義経北行伝説」の地で、義経主従は峠で野宿したという。つづいて同じく「義経北行伝説」の赤羽根峠を越えて遠野盆地に下っていく。峠下の上郷一帯がやはり「義経北行伝説」の地。今でも残る「風呂家」は義経主従が入浴させてもらった家なのだという。ここでは風呂家のきれいな奥さまと記念撮影。また、JR釜石線の線路わきにある駒形神社は、赤羽根峠越えで死んだ義経の愛馬「小黒号」をまつっているという。(略)
遠野では「続石」を見た。2つ並んだ石の上に幅7メートル、奥行5メートル、厚さ2メートルという巨石ののったドルメン。それを地元の人は続石と呼んでいる。「これだけの巨石の記念物をつくれるのは、怪力の弁慶をおいてほかにいない」ということで、ここも昔からの「義経北行伝説」の地になっている。
遠野からは立丸峠を越えて川井村へ。ここも「義経北行伝説」の地。義経主従がしばらく滞在したという判官神社に参拝。祭神は義経だ。さらにその近くの鈴ヶ神社へ。ここは義経の妻、静御前をまつっている。この地に静御前の屋敷があったという。
ここを最後に盛岡に向かったが、「義経北行伝説」の地はさらに北へ、北へ、三厩へとつづいている。(略)
ということで「義経北行伝説」は奥州の平泉から蝦夷の神威岬までつづいている。