北海道の馬文化
投稿日:2009年11月28日
サラブレッドに骨太道産子
苫小牧から国道235号で日高に向かっていく。
シシャモが名物の鵡川を過ぎると、日高に入る。日高は旧国名だ。
北海道は明治2年に10国(のちに11国)に国分けされ、86郡が置かれた。
日高はそのひとつ。沙流、新冠、静内、三石、浦河、様似、幌泉の7郡が置かれた。今の時代、「郡」は過去の遺物のようなものだが、かつてはきわめて重要な行政の区域だった。
ちなみに「北海道」もそのときに名づけられた。従来の「七道」にならったネーミングで、これによって「八道」になり、北海道、南海道、東海道、西海道の東西南北道が出そろったことになる。おもしろいことに、その中で今、エリア名で残っているのは北海道だけといってもいい。
日高町の富川で沙流川を渡るが、この川の流域にアイヌ文化のふるさとの二風谷がある。またこの川の流域には日高ならではの馬牧場が点在している。平取には馬主などの篤い信仰を集める義経神社がある。
「北海道の馬文化」は北海道遺産になっている。
富川から国道235号、通称「サラブレッド街道」をさらに行くと、日本の競走馬の主産地、新冠に到着。国道沿いの道の駅はその名も「サラブレッドロード新冠」。そこにはあの伝説の名馬、ハイセイコーの銅像が建っている。「ハイセイコー号」(1970年~2000年)は日本中を競馬ブームに巻き込んだ立役者。生産者は新冠の武田牧場だ。
ハイセイコーの銅像の台座には、
誰のために走るのか
何を求めて走るのか
恋に別れがあるように
この日が来るのが恐かった…
で始まる「さらばハイセイコー」の歌詞が刻み込まれている。
新冠からは静内、三石と通り、浦河に向かったが、日高のあちこちで馬牧場を見た。それはまさに日高ならではの風景だ。
ところで北海道遺産「北海道の馬文化」には(ばん馬、日高のサラブレッドなど)と、括弧書きされている。「ばん馬」は馬車や橇(そり)を引かせる馬のこと。北海道で「ばん馬」といえば、サラブレッドとは対照的な骨太の馬、道産子のことだ。
今から30余年前の我が「30代編日本一周」ではその「ばん馬」を走らせる競馬を北見競馬場で見た。ものすごい迫力に大感動。ガッチリした体格のばん馬に重い橇を引かせて競争するというもの。騎手は橇の上に乗り、鞭を振るう。登り下りのある200メートルほどの距離を走るのだ。
北見競馬場の場内は各馬がいっせいにスタートすると、ものすごい熱気に包まれた。コースの途中には2つの丘があるのだが、登り坂で止まってしまう馬が続出する。騎手は鞭を振りまくる。観衆も大声援を送る。それは北海道の開拓時代を彷彿とさせるものだった。
当時(1978年)は北見のほか、旭川と岩見沢、帯広で開催されていた。
今は帯広のみとのことだが、残念ながら今回、帯広競馬場での「ばんえい競馬」は見損なってしまった。
「北海道の馬文化」でひとつ不思議だったのは、「北海道一周」でほとんど馬肉を食べなかったこと。正確にいえば、馬肉料理を食べられなかった。北海道には馬肉を食べるという習慣がないようだ。
九州・熊本の名物料理は「馬刺」。なぜ熊本で馬肉が食べられるようになったかというと、熊本はかつては軍都で、戦前までは陸軍の第6師団があった。そのため軍馬の需要がきわめて高かったのがその理由だという。
それ式でいうと、同じく北海道の軍都、陸軍の第7師団が置かれた旭川も馬刺や桜鍋が名物料理になり、馬肉料理が定着してもよさそうなものだが…。
北海道では、とくに開拓時代、馬は家族同様だった。そんな馬を食べられるわけがないといった話を聞いたこともある。しかし、それは「馬刺」の本場、信州の伊那谷でも同じこと。馬は家族の一員だった。なぜ、北海道では馬肉料理が発達しなかったのか…(ねー、カブタン、教えてくださいよー)。
熊本の馬肉も、信州の馬肉も、東北の馬肉も、今ではその大半が北海道産の馬肉だ。
「北海道一周」で唯一、馬肉料理を食べたのは歌志内。そこでは町中の食堂で「なんこ定食」を食べた。「なんこ」とは馬のホルモンのこと。信州・伊那谷の「おたぐり」を思い出させる「なんこ」だった。
最後になってしまったが、沙流川流域の平取にある義経神社は別名「競馬の神様」。
ここには競馬関係者や競走馬生産の牧場関係者が多数、参拝している。「必勝祈願」や「愛馬開運」の幟も立っている。じつにおもしろいではないか。「義経北行伝説」の義経神社が「競馬の神様」になっていることが。
「北海道の馬文化」の奥は深い。