ピアソン記念館
投稿日:2010年4月11日
アメリカの宣教師がもたらしたもの
網走からは国道39号で北見へ。ここには北海道遺産の「ピアソン記念館」がある。ちょっと探すのにてこずったが、JR北見駅からそれほど遠くない住宅地に一角にある。アメリカ人宣教師G.P.ピアソン夫妻の私邸として1914年に建てられた洋館だ。
現在はピアソン夫妻の資料館として公開されている。夫妻に関しての多数の資料が展示され、夫妻の写真が飾られ、夫妻が愛用したオルガンもある.
北海道に大きな足跡を残したピアソン夫妻だが、その経歴は記念館前に立つ年表では次ぎのようになっている。
1861年 | ジョージ・ペック・ピアソンは1月14日米国・ニュージャージー州エリザベス市の牧師の家庭に生まれる。時に南北戦争が勃発する。 |
1862年 | ピアソン夫人はアイダ・ゲップ、アメリカ東部のフィラデルフィアに生まれる。 |
1888年 | プリストン神学校を卒業した後、キリスト教の宣教師として来日する。明治学院中学校で教鞭をとる傍ら、キリスト教の伝道に努めた。その後明治学院教師を辞し、千葉県や岩手県の盛岡などで伝道活動を行なう。 |
1892年 | 北海道に渡り、函館・小樽・室蘭・札幌・旭川など、各地で精力的に伝道活動をつづけた。そして聖公会宣教師アイダ・ゲップと結婚したのもこの頃である。 |
1914年 | ピアソン夫妻は、5月野付牛に入地し、道東・道北の伝道にあたる。野付牛では、伝道活動はもとより、私財を投げうって、貧しい人々の救済や、遊郭設置阻止を推し進めた。このような活動を通じ、多くの人々が夫妻の人柄を慕う事となった。夫妻の偉大さや、敬虔・愛・無欲・ユーモアは、現在においても、市民の中に語り継がれ、ここピアソン記念館へ通じる小路は「ピアソン通り」という名がつけられている。夫妻は、野付牛における15年間で、社会教育・精神文化・社会福祉分野の先駆者として、また人々の心の拠り所として、大きな足跡を残す。 |
1928年 | 40年間に亘る日本での伝道活動に終止符を打ち、帰国の途についた。帰国後は夫人の郷里であるフィラデルフィアにおいて、キリスト教の伝道や研究、執筆活動を精力的に行なう。 |
1939年 | 2年前に召天された夫人を追い掛けるように、ピアソンも7月31日、78年の人生を終える。 |
この年表中の野付牛は今の北見市の旧称になる。
「ピアソン記念館」で驚かされたのは、この建物を設計したのがウィリアム・メレル・ヴォーリズだということだ。
ヴォーリスといえば、メンソレータム(メンターム)の「近江兄弟社」の創業者としてよく知られている。近江八幡の本社前広場には若き日のヴォーリズの銅像が建っている。彼はキリスト教の熱心な伝道者であり、日本に先進の技術をもたらした優れた建築家でもあった。
ヴォーリズの建物は今、大人気で、近江八幡やその周辺にある彼の建築した建物をめぐる人がじつに多い。大阪・心斎橋の大丸デパートや東京・駿河台の山の上ホテルといった有名な建築物をはじめとして教会や学校、病院、住宅など、その作品は全国各地で1600にも及び、北見の「ピアソン記念館」が日本最北になる。
アメリカ人のヴォーリズは1880年、カンザス州レブンワース市で生まれた。
1902年、カナダのトロントで開催された海外学生伝道運動の大会に参加し、そこで聞いた宣教体験の報告に感動し、外国での伝道に一生をついやすことを決意したという。そして1905年、25歳のときに日本にやってきた。滋賀県立商業学校の英語の先生として赴任したのだが、キリスト教の精神に基づき、「近江を神の国に」という理想を実現させるために伝道、建築、教育、医療、製薬、出版などの事業を次々に興していった。信仰と事業を両立させ、一大社会奉仕活動グループを築き上げていったのだ。
彼はすっかり近江八幡が気に入り、日本人女性の一柳満喜子と結婚し、その後84歳の生涯を終えるまで近江八幡を離れることはなかった。
近江八幡の町には八幡小学校や旧八幡郵便局、洋風民家など数多くのヴォーリズの建築が残り、ヴォーリズ記念館がある。ヴォーリズ記念病院や近江兄弟学園もある。
ピアソンとヴォーリズは古くからの知り合い。1913年(大正2年)ごろ、2人は同時期にアメリカに一時帰国したが、そのときヴォーリズはピアソン邸の設計を依頼されたようだ。
北海道遺産の「ピアソン記念館」を通して北見と近江八幡の濃厚なつながりが見えてくるし、さらには当時の日本の「時代」も見えてくる。