カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

函館西部地区の街並み

投稿日:2009年11月13日

ぼくの北海道一周はいつも函館から

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異国情緒を味あわせてくれる函館西部地区の街並み


 函館はぼくの大好きな町。いままでに6度の「日本一周」を含め、何度か北海道を一周しているが、その出発点はいつも函館だ。青森から津軽海峡を渡って函館に上陸しないと、どうしても「北海道にやって来た」という気分にはなれないのだ。

 バイクのみならず、列車でも何度か、北海道には行っている。何といっても最初の列車旅は忘れられない。
 1980年6月3日、上野発15時30分の青森行き「はつかり11号」に乗った。「さー、北海道だ!」と高ぶる気持ちを抑えられない。「はつかり」に乗ると、じきに検札があり、車掌さんには「北海道まで行くのですか」と聞かれた。列車が仙台を通過するあたりで、「青函連絡船旅客名簿」の用紙が手渡された。それには日本語と英語で住所、氏名、年齢、性別を書き込むようになっていた。
 そのときは津軽海峡を越えて、「北海道」という異国に旅立つような気分になった。
 青森駅には0時13分に到着し、0時35分発の青函連絡船「羊蹄丸」に乗り換えた。
 目をさますとすぐに甲板に上がった。夜明けの津軽海峡はないでいた。「羊蹄丸」はなめらかな海面をまるで滑るように進んでいく。荒れた北国の海を想像していたので、あまりにも静かな海が信じられないほどだった。
 明けゆく空の色を映して、海はバラ色に染まっていく。色づいた海からスーッとそそり立つ山、それが函館山。山裾のそこかしこにまだポツン、ポツンと街明かりが残っていた。

活気あふれる函館朝市

 4時25分、「羊蹄丸」は函館港に到着。大勢の乗客と一緒に歩き、外に出ると、大きく息を吸った。澄み切った青空。上野駅を出発したときは、なんともうっとうしい梅雨空だったので、「これが同じ日本なのか」と驚かされたほど。
 桟橋のすぐ脇には函館名物の朝市。まだ5時前だというのに、朝市には活気があふれ、誰もが忙しげに動きまわっていた。
 ドーム形をした建物の中では、近郷近在のオバチャンたちが並んで座り、とれたての野菜を売っていた。スズランの白い花も見られた。
 函館の朝市で目立つのは何といっても魚介類などの海産物。裸電球がいっぱいぶらさがった店先にはまだピクピク動いているイカが並べられている。サケが積み上げられている。タラコやスジコなどが並んでいる。幾種類もの鮮魚、毛ガニやタラバガニ、コンブ、ワカメ、スルメといった朝市の商品が飛ぶように売れていく。雑然とした中に、人々のかもし出す熱っぽさが漂っていた。
 函館の町はライラックの花盛りで、やわらかな甘い香りをあたりに漂わせていた。
 大きな空。サラッとした肌ざわりの空気。そんな函館の町を歩きながらぼくはシベリアの大地を連想した。のびやかな町を歩いていると、ふとハバロフスクをプラプラ歩いているかのような気分にさせられるのだった。
 函館は日本で最初に開港した港のひとつ。そのため文明開化の波は、いちはやくこの港町に押し寄せた。海峡を見下ろす外人墓地の十字架やギリシャ正教のハリストス正教会、あちこちに残る木造の洋館、海へとつづく石畳の坂道、港を見下ろすカフェテラス…と、しっとりとした異国情緒を味あわせてくれたのだ。

幕末最初に西洋に開かれた港町

 そんな函館西部地区の街並みが北海道遺産になっている。石畳の道を歩き、ハリストス正教会、カトリック教会、旧イギリス領事館、旧ロシア領事館、外人墓地と見てまわった。港へと下っていく坂道には大三坂、八幡坂、日和坂…とそれぞれに名前がついている。 その中でも一番幅広く、堂々としているのが基坂。かつては函館の、ひいては北海道の中心地であった。そのため昔は「お役所坂」とか「御殿坂」と呼ばれたという。基坂を登ったところには旧函館区公会堂。明治43年に完成した木造2階建ての洋館。モダンな明治建築で、いまにも王朝貴族風に着飾った男女が現れ、舞踏会がはじまるような雰囲気を漂わせている。
 白亜の壁に緑の尖塔。エキゾチックなビザンチン様式のハリストス正教会。ここは日本におけるギリシャ正教の発祥の地。東京のニコライ堂の鐘はここから移されたという。
「ペリー会見所跡」があるところが、いかにも函館らしかった。

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カトリック教会
ハリストス正教会


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八幡坂


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函館西部地区の街並みを歩く
旧イギリス領事館


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外人墓地


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ロシア人墓地
人気スポットの赤レンガ街


 函館の西部地区を知るためには、幕末の開国の歴史を知らなくてはならない。その歴史といのは、かいつまんでいうと次のようなものになる。
 江戸時代の日本は200年以上もの長い間、鎖国の夢をむさぼっていた。その夢が、嘉永6年(1853年)、浦賀にやってきた4隻の黒船によって破られた。ペリーによって率いられたアメリカの軍艦。開国を強く要求した。
 翌年(安政元年)、ペリーは再びやってきた。幕府はその圧力に屈し、日米和親条約を結ばざるをえなかった。条約の主な内容はアメリカ船に食料や燃料を供給すること、下田、箱館(函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること、アメリカに最恵国待遇を与えることなどであった。つづいてイギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結び、徳川幕府の鎖国政策は崩壊した。
 アメリカはハリスを総領事として下田に駐在させた。ハリスは幕府に通商条約の締結を迫り、黒船が来てから5年、安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれた。それによってさらに神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)を開港し、江戸と大坂(大阪)を開市することになった。こうして日本の外国との貿易がはじまった。
 箱館、横浜、長崎の3港が最初の開港場になり、のちに神戸が加わった。
 函館にはこのような、日本の玄関口になった歴史がある。その歴史が函館の魅力の基になっている。

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