カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

番外編 1991・東京→サハリン 2

投稿日:2010年9月24日

稚内を出港。いざ、サハリンへ!

 1991年8月14日。いよいよ迎えたサハリンへの出発の朝。気持ちが昂ぶっている。10時、フェリーターミナルでの出国手続き。パスポートには「WAKKANAI」の文字の入ったスタンプがポンと押される。
「これで、日本を離れていくんだ」
 北防波堤ドーム前の岸壁へ。そこにはロシア船「ユーリー・トリフォーノフ号」(4600トン)が停泊している。クレーン車がサハリンを走る2台のスズキDR250SHを甲板につり上げる。すぐさま甲板に駆け登り、持ってきたロープでDRを甲板の手すりにくくりつける。

DRをつり上げる。稚内港で

 10時30分、出港。我々、カソリ&クール向後は甲板から身を乗り出すようにして、岸壁に立ちつくすテラノ高木に手を振った。テラノ高木の姿は次第に小さくなり、いつしか見えなくなっていった。
 稚内港が、稚内の町並みがどんどんと遠くなっていく。
 船は宗谷海峡に出ていった。右手に宗谷岬、左手に野寒布岬と稚内を取り囲む2つの岬を眺める。そんな2つの岬も水平線のかなたに消えていった。
 船内のレストランで昼食。スープ、グリーンピースを添えたハム、サラミ、塩ゆでしたエビ、鶏肉つきのライスを食べる。
 食後、甲板に上がると、サハリンの山々が手に届きそうなところにあった。船は日本海を北上。夕暮れの迫るころ、ホルムスク(旧真岡)港に到着。稚内から8時間の船旅だった。
 ホルムスク港に上陸すると、ぼくたちのサハリンツーリングの拠点、ユジノサハリンスクへと夜道を走った。

サハリン走行の第1日目

ユジノサハリンスク


 サハリン州の州都ユジノサハリンスク(旧豊原)は人口18万人。街路樹の涼しげな町。札幌や旭川などと同じように、碁盤の目状の道路が交差している。空気がサラッとしていてべとつきがない。
 ユジノサハリンスクでは「ツーリストホテル」に泊ったが、まずは両替だ。円をルーブルに替えたのだが、そのレートを聞いて驚いてしまった。ロシア経済の極度の不振が影響し、1ルーブルが5円50銭だという。その10何年か前にシベリアを列車で横断したときは1ルーブルは420円だった。わずか10数年の間にルーブルは100分の1近くまで価値を下げてしまった。サハリンのふつうの人の月給は300ルーブルほど。日本円では2000円にもならない。
 しかし、ユジノサハリンスクの町を歩いて感じるのは、国の貧しさとは対照的に、サハリンの人たちのゆったりとした暮らしぶりであった。
 さて、サハリンツーリングである。この町を拠点に今日は北へ、明日は南へと走り、1日の行程を走り終えると、またユジノサハリンスクに戻ってくる。
 とはいってもぼくたちだけで、自由に走ることはできない。ガイドの乗った車と一緒で、それがひとつ、気の重いところだった。
 だが、ガイドが「ツーリストホテル」にやってきたとき、そんな気の重さなどは、いっぺんに吹き飛んだ。なんとガイドはハッと息を飲むほどの美人。女子大生のキセニアで、教育大学で日本語を勉強しているという。
 透き通るような白い肌、明るいブルーの瞳、栗色がかった金髪のキセニアは、茶目っ気のある好奇心旺盛な女子大生。そんなキセニアの明るい笑顔を見た瞬間から、彼女に一目惚れ…。
 もう1人のガイドは高校生の男の子のサーシャ。2人とも和露、露和辞典をいつも持ち歩いている。ひらがな、カタカナはもちろん、漢字もかなり書ける。
 車の運転手はウォッカ大好きの、赤ら顔のブリース。これで我らサハリンツーリングの全メンバーがそろった。
 3人についてユジノサハリンスクの警察署に行き、パスポートと国際免許証を見せ、サハリン内を走れる免許証を発行してもらう。
 ブリースが運転するミリタリーカーの四駆にキセニアとサーシャが乗り、その後について、ぼくたちの2台のDRが走る。さわやかな真夏の風が気持ちいい。
「高い所に登れ!」
 これは旅の鉄則。
 それにのっとって、一番最初に、ユジノサハリンスクを一望するボルシビック山の展望台に上がった。すぐ後はスキーの70メートル級と90メートル級のジャンプ台。眼下に広がるユジノサハリンスクの市街地はのびやかだ。真下に見える幅広い通りはプロスペクト・ポページ。プロスペクトはアベニュー、ポページはビクトリーだと、キセニアが教えてくれる。
 ボルシビック山を下って、プロスペクト・ポページの起点のポページ広場へ。そこには戦勝記念碑。実物のT34型戦車をのせたモニュメントによじ登った。
「市場を歩け!」
 これも旅の鉄則。
 その言葉通りに市場を歩く。トマト、ジャガイモ、キューリなどの野菜売場、果物売場、パン売場などを見てまわる。市場では朝鮮人女性の姿が目立った。ここでは口にした木イチゴの甘酸っぱさ、小麦とライ麦からつくる飲み物、クワスの若干、発行した味わいが舌に残った。
 ユジノサハリンスク駅、駅前のレーニン広場、巨大なレーニン像、市庁舎、ガガーリン公園などをまわり、サハリンの第1日目を終えた。

キセニアと市場を歩く
「ツーリストホテル」の夕食


北海道へとつづくオホーツク海

 サハリンの第2日目。
 トマトとキューリ、サラダ、ソーセージ、ライスといった「ツーリストホテル」の朝食を食べ、10時出発。キセニアとサーシャが乗る四駆をDRでフォローする。目指すのは、オホーツク海に面したオホーツコエ(旧冨内)だ。
 ユジノサハリンスクからコルサコフへの幹線を走り、その途中で左折。オホーツコエまで50キロ。全線が舗装路だ。
「サハリンの道はひどいものだ。なにしろ、豊原(ユジノサハリンスク)を一歩出たら、もうガタガタ道の連続なのだから…」
 といった話を日本を出る前に聞いていたが、これが海外ツーリングの事前の情報と現実のギャップというもの。実際にはなかなかいい道なのである。
 オホーツク海の砂浜に出た。長い海岸線をDRで走る。潮風がたまらなく気持ちいい。「この海が北海道につづいている」

コルサコフ
オホーツクの海


 ハマナスの咲く砂浜で昼食。キセニアは黒パンを切り、ソーセージを切り、サケの缶詰を開けて…と、食事の用意をしてくれる。リンゴジュースを飲みながら、黒パンにトマト、キューリ、ソーセージをのせて食べる。慣れると、このロシアの黒パンがおししい。
 昼食後にはトナチャイ湖に行った。日本だったらたちまち観光地になって、土産物店やレストランが建ち並ぶであろう湖畔には何もない。自然のままだ。
 トナチャイ湖からはダート道を走ってコルサコフへ。
 コルサコフに到着すると、高台に立ち、港を見下ろした。このコルサコフこそ、戦前までは稚内へ連絡船の出ていた大泊。稚内と大泊を結ぶ稚泊航路は、日本本土と樺太を結ぶ大動脈になっていた。
 コルサコフでは町を歩き、市場を歩いたあと、アニワ(旧留多加)へ。ユジノサハリンスクへの道を左に折れ、ダートに入っていく。地平線までつづく一直線の道。アニワ湾の砂浜に出る。短い夏をおしむように日光浴をする人、冷たい海で泳ぐ人を見る。ビキニ姿の女性も見られた。
 アニワからユジノサハリンスクに戻った。

旧熊笹峠を越えて

 サハリンの第3日目。
 我々のツーリングメンバーが1人、代わった。男子高校生のサーシャから女子大生のジーニャに代わったのだ。ジーニャはキセニアの同級生で、同じく日本語を勉強している。キセニアの将来の夢は日本語か英語の先生になること。ジーニャは日本語の通訳になりたいという。
 サハリンでは日本語を専攻する学生が増えているというが、これぞ日本が経済大国になった証明。大きな経済力を持つと、その国の言葉も強い力を持つようになる。それを絵にかいたようなサハリンでの日本語熱。日本が経済的に落ち込み、貧しくなったら、サハリンの大学生たちはきっと日本語などには見向きもしなくなることだろう。
 それはさておき、うれしくなってしまうのは、ジーニャはキセニアに負けず劣らずの美人だということだ。2人はいつも控え目で、それでいてよく気がつくし、かわいらしくて茶目っ気もある。
 ユジノサハリンスクからホルムスク(旧真岡)へ。100キロほどの距離がある。この道はサハリンに上陸した日に走った道。そのときはナイトランでまったく風景を見ることはできなかった。
 途中で舗装は途切れ、ダートに入り、ホルムスク峠を越える。峠はロシア語で「ペリェバオ」だという。このホルムスク峠は日本時代の熊笹峠。その名の通り、峠は一面、熊笹で覆われている。見晴らしの良い峠で、日本海を一望できた。
 熊笹峠は日本軍とソ連軍の激戦地。昭和20年(1945年)8月15日の日本敗戦の後、ソ連軍は攻め込み、真岡に上陸しようとした。熊笹峠に陣地を構えていた日本軍は激しく砲弾を浴びせかけたが、そのため上陸したソ連軍に徹底的にやられた。今でも残っている峠のトーチカには、日本兵の死体が足の踏み場もないほど折り重なっていたという。
 峠下のホルムスクから北へ50キロ、チェーホフ(旧野田)まで行く。途中の日本海の砂浜で昼食。オホーツク海と違って日本海には、波ひとつなかった。まるで鏡のような海だ。
 チェーホフに着いたところで、町をひとまわりし、ユジノサハリンスクに引き返すことになった。ここで好奇心旺盛なキセニアとジーニャは、「バイクに乗せてもらいたいの」という。
「喜んで!」
 カソリがキセニアを乗せ、クール向後がジーニャを乗せることになった。
 キセニアはバイクに乗るのは初めてだとのことで、ちょっぴり緊張した表情。DRのリアのステップを下してあげると、彼女はこわごわとリアシートにまたがった。ぼくだってタンデムの経験はほとんどないので、キセニア以上に緊張した。
 走りはじめる。
 キセニアは怖いのだろう、体を硬くし、ギュッとぼくにしがみついてくる。彼女の胸のふくらみを背中で感じながら走る。
「う~ん、たまらん!」
 ユジノサハリンスクに戻ると、運転手のブリースは酒屋でサハリン製のビールを買い、ぼくたちに飲ませてくれた。軽いタッチのさわやかな味。キセニア、ジーニャ、そしてブリースと、ぼくたちはツーリングメンバーのロシア人が大好きになっていた。

キセニアとジーニャ。チェーホフで
サハリンを走る!


ドスビダーニア(さよなら)、サハリン!

 サハリンの第4日目。
 ユジノサハリンスクから北東へ。オホーツク海に面したスタロドブスコェ(旧栄浜)へ。広々としたジャガイモ畑の中を走る。一面に白い花が咲いている。ビート畑や牧場も見る。北海道に似た風景だ。
 サハリンの日本海側とオホーツク海側では、ずいぶんと違う。日本海側は山々が海に迫り、平地が少ない。それにひきかえ、オホーツク海側ははるかに開けた風景で平地が多い。
 シラカバ林の中にあるサナトリウムを見学。サハリンの人たちは1ヵ月もの休暇をとって、ここにやってくるという。3、4日、長くても1週間くらいの日本の湯治とはえらい違いだ。ゆったり生活しているサハリン人とせっせ、せっせと働く日本人の違いをそこに見るような思いがした。
 ソーコル(旧大谷)を通る。ここには軍の基地がある。崩れかかった兵舎や廃車同然のような軍用トラックが見える。そんなソーコル基地から、あの大韓航空のジャンボ機を撃墜したミグ戦闘機が飛び立った。1983年9月1日のことだ。
 ソーコル基地は世界中に大きな衝撃を与えた、まさに現代史の現場なのだが、朽ちかけた印象すら受ける基地の姿は「歴史の舞台」の華やかさからはほど遠いものだった。
 スタロドブスコェに到着。オホーツクの海に出る。砂浜で昼食だ。
 オホーツクの海岸の周辺は広々とした湿原になっている。釧路湿原に似た風景。その中を流れる幅100メートルほどの川が、すごいことになっていた。海から上ってくるマスが群れをなし、川面が盛上がっている。マスはあちこちで跳びはねている。もっと幅の狭い川だと、それこそ手づかみでとれるという。サハリンの自然の豊かさを物語るような話だ。
 そんなスタロドブスコェで折り返し、ユジノサハリンスクに戻った。
 あっというまに過ぎていったサハリンでの日々。「ツーリストホテル」のレストランでキセニア、ジーニャと夕食を食べる。これが一緒に食べる最後の食事。2人との別れが辛い…。
 キセニアもジーニャも、ユジノサハリンスク郊外の団地に住んでいる。そんな2人をバス停まで送っていく。
 別れぎわ、キセニアは、
「ヴィ ムニュ スラビーチシ」
 というと、彼女は赤くなってうつむいた。
 それはオホーツクの浜辺で昼食を食べているときに教えてもらったロシア語。
「私は あなたが 好きです」。
 バスが来る。2人が乗る。
「ドスビダーニア(さようなら)!」
 と叫び、カソリ&クール向後はいつまでも、走り去っていくバスに手を振った。
 翌日、ユジノサハリンスクからホルムスクへ。サハリンでの全行程の1000キロを走り終え、バイクともども「ユーリー・トリフォーノフ号」に乗り込み、稚内港へ。
 船がホルムスク港の岸壁を離れると、ぼくは甲板の後部に立ちつくし、
「ドスビダーニア、サハリンよ!」
 と大声で叫んでやった。
 稚内港に着くと、クール向後とDR-250SHを走らせ東京へ。
 これは後日談になるが、サハリンから小包が届いた。キセニアからで、中には日本語で書かれた手紙ときれいな絵の描かれた木のスプーン、ていねいに刺繍されたテーブルクロスが入っていた…。
 『賀曽利隆のオフロー道』(学研 1992年刊)より

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