カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

番外編 1991・東京→サハリン 1

投稿日:2010年9月21日

 稚内港北防波堤ドーム編で、稚内港から2度、サハリンに渡ったといったが、まずは第1回目、1991年のサハリン行を紹介しよう。

サハリンを目指して東京・日本橋を出発!

 1991年8月7日14時30分、東京・日本橋。
 ここには「日本国道路元標」がある。日本の道はここからはじまる。そんな日本橋に、 スズキDR250SHとともに立った。目指すのは、はるかに遠いサハリン。海を渡った異国の地だ。
 日本橋はぼくにとってのこだわりの場所。いままでに何度、バイクでこの地に立ったことか。
「東京→青森」の一気走りが好きで、繰り返し、走ってきた。その出発点はいつも日本橋。たいていは午前0時を期して出発する。R4を走ったり、太平洋経由のR4→R45、R6→R45を走ったり、日本海経由のR17→R7を走ったり…。
 ゴールはいつも青森駅前と決まっている。R4で16時間、R4→R45で20時間、R6→R45で21時間、R17→R7で22時間といったところだ。
 睡魔と闘いながら徹底的にバイクを走らせ青森へ。これがおもしろいのだ。もうやみつきになりそう。
 自分とバイクが一心同体になるとでもいうのだろうか、すべてのことを忘れて走ることのみに集中し、熱中できるのだ。
「東京→青森」では国道ばかりではない。何本もの林道を折りこみ、今度はこのルート、次はこのルートと、ルートを変えて走っている。そんなダート経由での「東京→青森」の出発点も、やはり日本橋なのだ。
 さらに「日本一周」の出発点も、終着点も日本橋なのである。
 そんな日本橋を出発点にして、どうしても一度やってみたかったのが、東京発の海外ツーリングである。
 1990年、50ccバイクのスズキ・ハスラーTS50で「世界一周」した。ロサンゼルス→ニューヨーク→ロンドン→イスタンブール→カルカッタと25000キロを走ったが、このときほんとうは東京を出発点にするつもりでいた。
 東京からR1→R2で神戸へ。バイクともども船で上海に渡り、シルクロードを横断してイスタンブールまで行く計画だった。だが中国をバイクで走ることができず、東京発を断念。コースを逆にしてバイクをロサンゼルに送り出したのだった。
 ぼくはそれまでに世界の6大陸をバイクで駆けてきたが、東京を出発し、そのまま海を渡り、世界を駆けるのは長年の夢。その夢をついに実現させる時がやってきた。
 さて東京からサハリンまでのルートだが、こだわりの「東京→青森」間では何本もの林道を走りつなぎ、津軽海峡を渡った北海道では日本最北端の宗谷岬を目指し、そして稚内港でロシア船に乗るというものだ。
 我が相棒は「テラノザウルス」の異名をとるテラノ高木。我々は2台のDR250SHを走らせサハリンを目指す。
「さー行くぜ、テラノ高木よ!」

1本、また1本と東北の林道を激走!

「東京発青森経由サハリン行」の第1泊目は栃木県の湯西川温泉。「湯西川本館」に泊まり、内風呂と露天風呂に入ったあと、テラノ高木とビールで乾杯。旅立った喜びが胸にこみあげてくる。うれしい。ほんとうにうれしい。
「もう、何もいらない。すべて、これでいいんだ」
 といったうれしさなのだ。
 湯西川は越中の五箇山や四国の祖谷、九州の椎葉などと並ぶ平家の落人伝説の地。翌日は「平家落人民俗資料館」を見学し、真夏の照りつける日差しを浴びながら湯西川を出発。舗装路で土呂部峠に登り、そこからいよいよ「東京→青森」の第1本目の林道、田代山林道に入っていった。
 県境の峠にむかってコーナーを走り抜け、高度を上げていく。尾根に出ると、関東と東北を分ける帝釈山脈の山々を一望。真夏の帝釈山脈はびっしりと深緑で覆われている。まるで緑の絨毯を敷つめたよう。DRに乗りながら目の奥底まで緑一色に染まってしまう。 田代山林道の栃木・福島県境の峠、田代山峠を越え、奥会津に入っていく。峠を下った舘岩村の松戸ノ原にある「かねまる食堂」で昼食。カソリ定番の「ラーメン・ライス」を食べる。これを食べないことには、どうにもこうにもツーリングに出たような気がしない。
 満腹になったところで、R352の旧道で中山峠に行き、第2本目の七ヶ岳林道に入っていく。稜線上を走っていくので見晴らしがいい。
「東京→稚内」間の宿泊はすべて温泉宿にするともりでいたので、七ヶ岳林道を走り切り、R289の駒止峠下の集落、針生に出ると、地図上で温泉地を探す。その結果、第2泊目は会津板下町の津尻温泉になった。
 ここがよかった。田圃の中の一軒宿。1泊2食4500円という安さもさることながら、女将さんがとってもやさしい、いい人だった。
 翌日は女将さんと湯治客のオバチャンの見送りを受けて走り出したが、このオバチャンは何と樺太生まれ。9歳の時、大泊(現コルサコフ)から小船に揺られて稚内に逃げ帰り、命を拾ったという。ぼくたちがこれからバイクでサハリンに行くというと、目を丸くして驚いていたが、子供時分を思い返すような、なつかしそうな表情を顔に浮かべた。
 会津盆地から福島・山形県境へ。第3本目の五枚沢林道で赤崩山に向かって登っていく。県境の峠に立つと、山々が落ち込んでいく先に、今走ってきた会津盆地北端の水田地帯が見渡せる。眼下の谷間からは、渓流の音が山肌をせりあがって聞こえてくる。峠を越えて山形側に入ると、今度は葡萄林道で広河原の集落へと下っていった。
 第4本目の林道は三面林道。R113の小国から入っていく。小国は山形県内にはもう1ヵ所あるし、そのほか新潟や熊本などにもあるが、どこも似たような地形。小盆地の独立した世界で、まさに「小国」なのである。
 小国最奥の集落、入折戸から三面林道のダートに入り、朝日連峰の山々を眺めながら走る。そして山形・新潟県境の峠を越え、新潟側の峠下の集落、三面へと下っていった。
 第5本目は朝日スーパー林道。かつてはロングダートの代名詞のような林道だったが、びっくりするほど舗装が進み、
「これじゃ、全線の舗装も間近だな…」
 と嘆くカソリ&テラノ高木。
 朝日スーパー林道で新潟・山形の県境を越え、朝日連峰の登山口になっている朝日村の大鳥へ。庄内平野に入っていくと、真っ赤な夕日が落ちていくところだった。
 第3泊目は庄内平野のまっただなかにある長沼温泉。翌朝は「スゲー!」と声を上げてしまうほどの晴天で、堂々とした山の姿の鳥海山が庄内平野を見下ろしている。
 第6本目はその鳥海山の東側を越えていく奥山手代林道。山形県側はかなりラフで、大きな石がゴロゴロしている。道幅も狭く、勾配も急だ。峠を越えて秋田県側に入ると道は良くなり、ぐっと走りやすくなる。
 ダート30キロの奥山手代林道を走り切り、矢島からR108で本荘へ。その途中では危なかった…。追い越し禁止の区間ではあったが、先行のトラックを追い越そうと一気に加速した瞬間、レーダーが目に入り急ブレーキ。間一髪でセーフ。「一斉」にやられていたら、スピード違反と追い越し違反のダブルパンチを食らうところだった。
 本荘からはR105、県道経由で秋田近くのR13に出、第7本目の河北林道に入っていく。渓流沿いに走り、峠を越え、秋田マタギで有名な阿仁町の比立内に出た。
 比立内からはR105で鷹巣へ。前方には夕暮れの白神山地の山並みが見えてくる。
 R7に出、いよいよ「東京→青森」最後、第8本目の相馬田代林道に入っていく。
 すっかり暗くなった林道を走る。「林道ナイトラン」。夜の林道というのは何とも不気味。恐い思いをしつづけながら走り、ついに秋田・青森県境の長慶峠に立った。峠を下り、39キロのダートを走り切り、弘前へ。弘前からはR7で青森へ。
 青森駅前の到着は22時45分。「東京→青森」の1053キロを走り、その間のダートは243キロだ。ダート率は23パーセント!
 カソリ&テラノ高木は「東京→青森」を走り、意気揚々とした気分で青森港へ。夜中のフェリーで函館に渡るつもりだった。
 ところが青森港で見たのはおびただしい数の車やバイク。それらはキャンセル待ちで、乗船できるのは26時間後だという。
「よーし、こうなったら夜通し走るゾ」
 と決め、本州最北端の大間崎に向かう。大間崎近くの大間港から北海道に渡ろうとしたのだ。
 大間崎に到着したのは4時30分。夜が白々と明けようとしていた。すぐさま大間港へ。いやー、眠いこと眠いこと。しかし、そのおかげで、9時20分発の室蘭行きのフェリーに乗ることができた。
「北海道に渡るのがこんなにも大変だなんて…」

2人の話題はもっぱら「千歳美人」

 カソリ&テラノ高木は気合を入れて室蘭港に降り立った。
 DR250SHのエンジンを吹かし、北の大地を走り出す。オロフレ峠、美笛峠を越えて支笏湖へ。湖畔の丸駒温泉に泊まった。さっそく露天風呂に入った。湯につかりながら眺める支笏湖は、なんとも幻想的。ミルク色した霧が湖面を流れていく。
 翌朝はザーザー降りの雨。雨をついて走り、千歳へ。
 千歳のバイクショップでDRのメンテをしてもらったが、そのとき20代前半の絶世の美女が自転車を引いてやってきた。スラッとした背丈、色白の肌、ウェーブのかかった長い黒髪。彼女は自転車のパンク修理を頼もうと店にやってきたのだが、なんと店の主人は「今、忙しいんだ」 
 と、すげない返事。
「千歳美人」は困ったような表情を顔に浮かべ、店を出ていった。ぼくたちはポカンと口を開けてしまったが、我にかえると、
「テラノ高木よ、今の千歳美人を追いかけていかんか。私がパンク修理しましょうって」 とそんな冗談をかわしたが、もう「千歳美人」の姿はなかった。
 それからの道中は盛り上がること盛り上がること。話題はもっぱら「千歳美人」。
「だいたいおかしいよ。あんなすごい美人が千歳にいるなんて」(美人研究家カソリ) 「あのバイク屋のオヤジもおかしいですよ。あんな美人の客を追い返すなんて。あのオヤジはきっとホモですよ」(ホモ研究家テラノ高木)
 千歳から夕張へ。そのころには雨も小降りになり、夕張市と三笠市の境の三夕トンネルで抜けるころには日が差してきた。

サハリンよ、待ってろよ!

 旭川からはR40を走り、塩狩峠へ。その名の通りの石狩と天塩国境の峠で、石狩川・天塩川という大河の分水嶺にもなっている。
 峠には宗谷本線の塩狩駅があり、駅前の「塩狩温泉観光ホテル」に泊った。隣合ったユースホステルからはホステラーたちのにぎやかな声が聞こえてくる。
 さっそく温泉に入る。ほどなくテラノ高木に「いいポイント、見つけましたよ」といわれ、手を引っ張られた。大浴場は男女別になっているが、タイル状に張られた厚いガラスのつなぎ目がわずかに透き通っていて、そこから女湯がのぞけるという。2人して若干透明なガラスに目を押しつけ、湯けむりに揺れる裸身に目をこらした。たまらん。
 北海道最後の1日は、まるでぼくたちを祝福してくれるかのような晴天。
 国道40号で士別、名寄と通り、美深から道北屈指のダートルート、加須美スーパー林道に入っていく。だが、すぐに通行止め。加須美峠近くで通信施設を建設中だという。
 だが、そう簡単には諦めないカソリ&テラノ高木。美深側がダメなら反対の歌登側だと、廃線になった美幸線の赤錆びた線路に沿って走り、西尾峠を越えて加須美スーパー林道の歌登側にまわり込んだ。そしてストレート区間の長いダートを全速で突っ走り、加須美峠に立った。
「東京→稚内」のいよいよ最後の行程。歌登から枝幸へ。オホーツクの海が見えてきた。 枝幸からはR238で宗谷岬へ。真夏の、一番ライダーの多い季節なので、ひんぱんにバイクとすれ違う。そのたびにピースサインをかわす。握りこぶしを振り上げて、ガッツポーズでサインを送り返してくれるライダーもいる。
 浜頓別、猿払と通り宗谷岬に到着。東京から2000キロ。宗谷海峡の水平線上にはうっすらとサハリンの島影が見える。これからそのサハリンに行くので、胸が震えるほど感動した。
 宗谷岬の高台にある旧日本海軍の望楼に登ると、サハリンはより大きく見えるような気がする。この地から東京までは直線で1106キロ、サハリンまではわずか43キロでしかない。そこから宗谷海峡の水平線に向かって、
「サハリンよ、今行くぞ~。待ってろよ!」
 と、大声で叫んでやった。
 日本最北の町、稚内に到着すると、稚内港の北防波堤ドーム近くの旅館「氷雪荘」に泊まり、クール向後に落ち合った。「東京→稚内」を一緒に走ったテラノ高木と3人で、ワイワイガヤガヤの宿での夕食だ。
 テラノ高木は稚内から東京に戻り、サハリンにはクール向後と一緒に行くことになっているのだ。夕食を食べ終わると、近くのコインランドリーに行き、ドロドログシャグシャになったウエアを洗濯。そのあと3人で鮨屋に行き、目一杯、「日本の味」を食べた。

 『賀曽利隆のオフロー道』(学研 1992年刊)より

『賀曽利隆のオフロー道』は、オフロードバイク誌『バックオフ』のカソリ記事を1冊にまとめたもの。『バックオフ』編集部のテラノ高木こと高木剛さんとは「東京→稚内」のみならず、「日本横断」とか東北、甲州、信州、紀伊半島、四国、九州と日本全国を一緒に走りまわった。この本にはそれらの記事が満載されている。カソリ&テラノ高木は名コンビだったのだ。

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