番外編 2000・サハリン縦断 2
投稿日:2010年10月6日
間宮海峡での「海峡浴」!
8月14日9時、サハリン最北の町、オハを出発。「サハリン縦断」復路編の開始だ。
まずはオホーツク海側のオハから間宮海峡(タタール海峡)側のモスカリボへとサハリンを横断する。といっても南北に細長いサハリンの中でも、とくにこのあたりはくびれて狭くなっているので、オホーツク海の海岸から間宮海峡の海岸までは、バイクのメーターで38キロでしかなかった。
モスカリボの町中から海岸への道はフカフカの砂道。砂に車輪をとられ、転倒する人が続出。そんな砂道を走り抜けて砂浜に出たときは大感動!
裸になって海峡に飛び込み、「海峡浴」をし、全身で間宮海峡を味わった。
間宮海峡は1808年に間宮林蔵が発見し、シーボルトがヨーロパに伝えたことによって「間宮海峡」といわれるようになった。海峡の一番狭い部分はわずか7・4キロ。そこからだと対岸の大陸がはっきりと見えるという。海峡出口のモスカリボあたりだと幅が広いので、いくら目をこらしても対岸の大陸はまったく見えないが、「今度はロシア本土を走ろう!」と、「シベリア横断」を強く意識した。
北海道とサハリンを分ける宗谷海峡を越えたときもそうだが、海峡というのはじつに心に残るもの。間宮海峡を見ていると、「アフリカ一周」で渡ったアフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡や「南米一周」で渡った南米大陸とフェゴ島の間のマゼラン海峡、「ユーラシア横断」で渡ったヨーロッパとアジアを分けるボスポラス海峡、アラビアの帆船ダウで渡ったアフリカとアラビア半島を分けるバベル・マンデブ海峡、フェリーで何度となく渡ったイギリスとヨーロッパ大陸を分けるドーバー海峡など、今までに見てきた世界の海峡のシーンが次々に思い出されてくる。
「ノグリキホテル」
オハからノグリキへ。
ノグリキでは往路のときと同じ「ノグリキホテル」に泊まり、同じパブでビールを飲み、ノグリキの町を歩いた。
ホテルのレストランでの夕食にはボルシチとサラダ、チキンをのせたライスが出た。
サハリンではライスがけっこう食べられているが、皿に盛られたライスをナイフとホークで食べる。ここでは行きも帰りも大好きなボルシチが出た。ぼくにとってはボルシチが、一番ロシアを感じさせる食べ物だ。
ボルシチはビート(砂糖大根)の入った赤味を帯びたスープだが、地域ごとに様々なバリエーションがあるので見た目も味もずいぶんと異なる。各地で様々なボルシチを味わうのはロシア圏での旅の大きな楽しみといえる。
翌朝の朝食はパン、クレープ、サラダ、それとライス。飲み物は紅茶。そのライスというのはミルクをかけ、砂糖を入れて甘くし、クリームをたっぷりのせたもの。ヨーロッパ人の好物だが、甘くしたライスというのはどうにもこうにも食べにくい。
「ご飯はこうして食べるもの」
という日本風の食べ方が、身にしみついているからなのだろう。
ノグリキからユジノイサハリンスクまでは列車の旅になる。出発は夕方なので、午前中はノグリキの町を歩き、ホテルのレストランで昼食。
その昼食にはホットケーキ風薄焼きパンのプリヌイとニシンのオイル漬け、それとロシア風水餃子のペリメニが出た。ニシンのオイル漬けは油ぎったものではなく、さっぱりとした味わい。それをプリヌイにのせて食べる。ペリメニは皮と肉の取り合わせが絶妙で我々、日本人の口に合う。これらすべての料理にはいつものことだが、香辛料のオクロップが添えられている。
「ノグリキホテル」のレストランでは往路、復路ともにふんだんにロシア料理を食べることができた。
冒険家「河野兵市」との出会い
「ノグリキホテル」で昼食を食べおえると、「サハリン軍団」はバイクに乗って町外れにあるノグリキ駅へ。列車の発車時刻まではまだかなりあったが、それまでに自分たちでバイクを貨車に乗せなくてはならなかった。ぼくたちは全員で力を合わせて19台のバイクを貨車に積み込んだ。そのあとは駅近くのノグリキ湖に行き、今度は「湖水浴」を楽しんだ。
ノグリキ駅に戻ると、なんとも驚いたことに、「カソリさ〜ん!」と声を掛けられた。 その人は冒険家の河野兵市さん。河野さんは北極点から故郷の四国・愛媛県の瀬戸町(現伊方町)まで、6年間かけて人力で踏破するという。その最後がサハリンになるとのことで、北極圏からサハリンまで下見をしていた。河野さんは下見をほぼ終え、我々の乗る列車でユジノサハリンスクまで行くところだった。
「河野兵市」といえば日本を代表する冒険家。21歳のときに自転車で「日本一周」。そのあと世界に飛び出し、7年あまりをかけて世界を駆けめぐった。
その間に「ロサンゼルス→ニューヨーク」間の徒歩での「北米大陸横断」をしたり、自転車での「南米大陸縦断」を成しとげた。さらに驚かされたのは、その後のリヤカーを引いての「サハラ砂漠縦断」、そして徒歩での北極点踏破だ。
そんな河野さんはさらなる大冒険として、今度は北極点から自分の故郷まで、完全踏破しようというのだ。
「来年には必ず実行しますよ!」
という河野さんは、迫力満点の顔をしていた。ノグリキ駅でしばらく語りあったあと、お互いのこれからの旅の健闘を祈ってガッチリ握手をかわし、ユジノサハリンスク行き列車のそれぞれの車両に乗り込んだ。
(河野兵市さんはその翌年の2001年に北極圏で遭難し、亡くなった。なんとも惜しまれる河野兵市さんの死だ…)
サハリン、列車旅!
17時05分、ユジノサハリンスク行きの列車はノグリキ駅を出発した。
緑色の2連のジーゼルカーに引っ張られた14両の客車。我々の乗ったのは寝台車で4人用のコンパートメント。
通路の窓は上部だけが開くようになっている。そこから流れゆく風景を眺めた。
ところどころでは道路も見られた。
「あの道をバイクで走ったのだ」
と思うと、感無量。
夕暮れが迫ると、我ら「サハリン軍団」の宴会がはじまった。連結器のあたりにメンバーが集まり、ビールやワインを飲んだ。
そのあと食堂車での夕食。サラダと貝料理、豚肉料理が出た。食堂車は我々「サハリン軍団」の専用車同然だったので、食事のあとはまたしてもビール、ワインでの宴会になり、警官のジマさん、運転手のボロージャさん、ガイドのワリリさんをまじえて夜中まで飲み続けた。
ワリリさんは盛んにカムチャッカ半島のすばらしさを語り、「次はカムチャッカ半島に行こう!」といった。さらなるロシアの旅の話で大盛り上がり。こうしてバイクでの「サハリン縦断」を成しとげると、今度は無性にロシア本土を走りたくなった。カムチャッカ半島も、シベリアの道の尽きるマガダン港までの道も、バイクで走ってみたくなるのだった。
(この時の熱い想いが、それから2年後、2002年の「シベリア横断」につながっていく)
翌朝、9時30分、ユジノサハリンスク駅に到着。ノグリキから16時間25分の列車の旅だった。
列車からバイクを下ろし、ユジノサハリンスク駅前の「ユーラシアホテル」に泊まる。 シャワーを浴びてさっぱりしたところで、日本料理店「飛鳥」で昼食。カラフトマスの焼き魚、イクラ、カニの入った酢の物と北海の海の幸を存分に味わった。
我ら「サハリン軍団」は「サハリン縦断」の成功を祝して「乾杯!」を繰り返した。
午後はユジノサハリンスクの町を歩いた。「サハリン州郷土博物館」を見学。日本時代の樺太庁博物館そのまんま。1938年(昭和13年)に完成した純日本風の城郭を思わせるような建物だ。ここには北緯50度線に置かれていたかつての日本とソ連国境の標石も保存展示されている。
夜は「レストランユーラシア」でのパーティー。それにはガイドのワリリさんと運転手のボローニャさん、それと警官のジマさんが奥さんと15歳の娘リカさんを連れて参加してくれた。
ジマさんの奥さんとリカさんはともに美人。とくに透き通るような色の白さのリカさんは我ら男どもの注目の的で、何かとカタコトのロシア語で話しかけるのだった。
食事が終わると、今度はウオッカパーティー。ワリリさんやボローニャさんとトコトン勝負したので、ぼくを含めて何人かが足腰が立たないくらいに酔ってしまった。
8月17日8時、ユジノサハリンスクを出発。パトカーの先導で40キロ走り、コルサコフへ。10時出港の「アインス宗谷」に乗り込んだ。全行程1463キロの「サハリン縦断」が終った…。
我ら「サハリン軍団」は甲板に集合。離れていくコルサコフ港に向かって、「ドスビダニア(さよなら)」と、大声で叫んだ。
稚内港到着は14時。入国手続きを終え、「サハリン軍団」の解散式を終え、稚内を出発したのは15時30分。みなさんとの別れの辛さ、寂しさを振り払うようにしてスズキ・ジェベル250GPSバージョンを走らせ、日本海側を南下した。
天塩、留萌、小樽、余市、江差、松前と通り、函館に到着したのは4時30分。
「稚内→函館」647キロの一気走り。青森行きのフェリーに乗り込むと、船内ではドロドロになって眠りこけた。