カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

スキーとニセコ連峰

投稿日:2010年11月26日

レルヒ中佐が伝えたスキー

 蝦夷富士の羊蹄山を一周して倶知安に戻ると、国道5号沿いにある「レルヒ記念公園」に建つレルヒ中佐像を見る。台座には次のように書かれている。

倶知安のレルヒ中佐像


 オーストリア国武官テオドール・フォン・レルヒ中佐は、明治43年、日本に派遣された。2年に亘って我が国陸軍の将校たちに一本板によるスキーの指導を行なった。
 明治45年4月15日に旭川市の第7師団将校等を伴い来町したレルヒ中佐は、16日に旭ヶ丘付近にて町民にスキーの練習を公開した。翌17日には蝦夷富士といわれる秀峰羊蹄山のスキー登頂に挑んだ。
 この登頂には一行10名の外に町内の高山万次郎、嶋田賢三、山根長松が道案内として同行したが、急峻と零下30度の酷寒、しかも視界零に近い猛吹雪に見舞われる中で、9時間余を費やして登頂に成功し、全員無事帰着した。
 倶知安町は昭和61年2月に本町において開催される第41回国民体育大会冬季スキー競技会を前にして、レルヒ中佐一行の壮挙を記念するとともに、日本文化を理解し、生涯を通して日本をこよなく愛したレルヒ中佐に深い敬慕の念をもって記念公園を建設し、あわせて有志一同は浄財を募ってレルヒ中佐像を建立し、我が国「スキーの父」の功績を永遠に讃えることにした。

 テオドール・フォン・レルヒ(1869~1945)は、銅像の説明文に我が国の「スキーの父」とあるように、日本で初めて本格的なスキー指導をおこなった。
 八甲田山での雪中行軍で大量遭難という大事故を起こした直後の日本陸軍はレルヒのスキー技術に注目し、新潟県高田(上越市)の歩兵第58連隊や高田の金谷山などでのスキー指導を依頼。ということで金谷山には「日本スキー発祥記念館」がある。レルヒが伝えたのは1本板のスキーだった。
 レルヒが倶知安の町民たちにそのスキー技術を公開した旭ヶ丘は、倶知安駅の北西で、今では旭ヶ丘公園になっている。このスキーと倶知安の南西に連なるニセコ連峰が北海道遺産になっている。

ニセコのスキー場から眺める羊蹄山


倶知安の近郊から眺めるニセコ連峰
ニセコのスキー場


ニセコのスキー場
ニセコ連峰の主峰ニセコアンヌプリ


 ニセコ連峰の主峰、ニセコアンヌプリ(1308m)の山麓にはいくつものスキー場があるが、世界でも有数の雪質を誇るスキー場群で、日本のみならず海外からも多くのスキーヤーがやってくる。
 と同時に、ニセコ連峰は火山群で、ニセコには何湯もの温泉がある。抜群の泉質、豊富な湯量の温泉が数多くあるのが特徴。高原を貫くワインディングもたまらない。風景もすばらしい。ということでニセコは北海道ツーリングには欠かせないエリアになっている。
 雪の季節にはまだ早かったが、倶知安駅前を再度、出発し、ニセコ連峰をめぐった。
 ニセコグラン・ヒラフ、ニセコビレッジ、ニセコアンヌプリといったスキー場の前を通り、ニセコアンヌプリを間近に眺める地点まで登っていく。

ニセコの温泉群

 10月下旬のニセコの高地はもう冬のような寒さ。スズキDR-Z400Sで切る寒風は体に突き刺さってくるよう。ガタガタ震えてしまったが、そこからはニセコ五色温泉、ニセコ湯本温泉、ニセコアンヌプリ温泉、ニセコ薬師温泉とニセコ昆布川温泉とニセコの温泉をハシゴ湯し、国道5号に下った。
 最後にニセコ新見温泉「新見本館」の湯に入ってニセコの温泉めぐりを終えた。

ニセコ五色温泉


ニセコアンヌプリ温泉
ニセコ新見温泉


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