カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

第8回 坂本探訪3

投稿日:2010年12月24日

2010年 林道日本一周・西日本編

近江は京都よりおもしろい

 龍谷大学の須藤教授宅で朝食をいただき、奥様によーくお礼をいって出発。須藤先生の車についてスズキDR-Z400Sを走らせ、瀬田のキャンパスへ。
 だが、まっすぐ大学に向かうような須藤先生ではない。
「まだ、すこし時間があるから」
 といって坂本を案内してくれた。
 さすが「観文研(日本観光文化所)魂」というか、これぞ宮本常一先生ゆずりの教えといったところだ。
 まず須藤先生が最初に行ったところは西教寺(さいきょうじ)。ここは聖徳太子が推古26年(618年)に開いた古刹。天台宗真盛派(しんぜいは)の本山。天台宗では延暦寺、三井寺と並ぶ三山のひとつになっている。
 西教寺といえば京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀の墓のある寺で知られている。そこには光秀とその一族がまつられている。
 明智光秀は坂本城の城主だった。
 天正10年(1582年)6月2日、秀吉の毛利征伐の支援を命じられた光秀は因幡に向けて出陣。その直後、山陰道の老ノ坂峠で「今は時。敵は本能寺にあり!」といって京都に引き返し、1万3000の軍勢で信長が宿泊していた本能寺を急襲した。 
 その後、光秀は天下分け目の天王山の戦いで秀吉軍に大敗し、無残な最期をとげ、ここ西教寺に葬られた。

  順逆無二門
  大道徹心源
  五十五年夢
  覚来帰一元

 西教寺の境内には光秀の辞世の句碑が立っている。それには、次のような説明が書かれている。
「修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかしこれは二つにあらず。実は一つの門なのである。即ち順境も逆境も一つで、窮極のところ、人間の心の源に達する大道である。そして我が五十五年の人生も夢の醒めてみれば、全て一元に帰したものだ」
 何とも奥が深いというか、味のある辞世の句ではないか。とくに最後の「覚来帰一元」には胸のしびれを感じてしまう。さすが教養人といわれた明智光秀だけのことはある。
 そんな光秀が何で信長を…と改めて西教寺で思ってしまうのだ。
 須藤先生は次に明智光秀が築いた坂本城跡に連れていってくれる。といっても今ではその大半が宅地化されているが…。天守閣のそびえる本丸は琵琶湖畔にあった。城跡の中央を国道161号が貫いているが、当時の坂本城は信長の安土城に並ぶような大城だったという。
 最後に須藤先生は、日吉大社・山王祭の神輿の順路を案内してくれた。朝の散歩でも寄った榊宮社は日吉大社境外108社のひとつで、山王祭のときは大津の天孫神社から曳いてきたヒモロギの榊をここで一時、留め置く重要なところなのだという。
 琵琶湖畔の七本柳には鳥居が建っているが、日吉大社・西本宮前から出発する山王七社の神輿は坂本の町内を練り歩き、ここから御座船に乗り、唐崎神社沖まで湖上の巡幸をするという。
「湖国三大祭」のひとつとして知られる山王祭は湖国に春を呼ぶ神輿祭。3月上旬の神輿上げに始まり、4月中旬の神輿巡幸で終わる山王祭は1300年以上の歴史を誇っている。近江の歴史はとてつもなく古い。
「カソリ君、近江は京都よりもよっぽどおもしろいよ。ここには京都以前の歴史がある」 という須藤先生の一言には素直にうなずけた。
 近江のとてつもなく古い歴史のおもしろさを須藤先生に教えられた。

フォトアルバム

西教寺にやってきた
西教寺の参道を歩く




西教寺参道脇の坊

西教寺参道脇の坊
坊の庭園




西教寺の本堂

明智光秀とその一族の墓
歴史を感じさせる宝篋印塔(ほうきょういんとう)


宗祖大師殿
西教寺から見る琵琶湖


坂本城跡
榊宮社




琵琶湖畔の七本柳

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