カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

第9回 独演会

投稿日:2010年12月25日

2010年 林道日本一周・西日本編

若者に囲まれて「旅人生」を語る

 名残おしい坂本をあとにし、龍谷大学教授の須藤先生の車の後についてスズキDR-Z400Sを走らせる。
 大津の中心街を走り抜け、瀬田川の唐橋を渡り、龍谷大学の瀬田キャンパスに到着。
 大講堂でのカソリの講演会(独演会?)、開始。「林道日本一周」の全装備で壇上に登る。ヘルメットを手にかかえ、ザックを背負い、バイク用のジャケットとパンツ、オフロードブーツといういでたちだ。
 300人ほどの学生からは「おーっ!」といった、ちょっとしたどよめきが起きる。
 まずは昨日「林道日本一周」に旅立ち、ひと晩須藤先生のお宅に泊めてもらい、心に残る酒宴が夜遅くまでつづいたことを話した。
 今朝は夜明けとともに起き、坂本を歩きまわったが、歴史の積み重なった坂本がじつにおもしろかったこと、何も遠くにいかなくても、おもしろいところは身近にあることをみなさんに話した。
 そのあとで本題の我が「旅人生」を語った。
 2時間近い講演時間はあっというまに過ぎ去った。
 身を乗り出すようにして聞いてくれた美女系女子学生に目がいってしまう。
 須藤先生は日々、このような若い学生たちにとり囲まれているのかと思うと少々、羨ましくもなる。人間、若い人たちにとり囲まれているというのは最高の生き方だ。
 宮本常一先生もそうだった。
 日本観光文化研究所(観文研)で若手の所員たちに囲まれているときは、じつにうれしそうなお顔をされていた。あらためて須藤先生は、宮本先生の教えをこうして今の若い世代に伝えているのだということがよくわかった。
 宮本常一先生は1981年1月30日に亡くなられた。
 それから8年後の1989年3月31日、日本観光文化研究所は解散した。
 須藤先生を含めて何人もの所員たちは大学教授になり、日本各地に散っていった。誰もが宮本先生の教えを引き継ぐ貴重な人材として。そして須藤先生と同じように「宮本学」を今の若い世代のみなさんたちに伝えている。
 カソリの独演会が終ると、キャンパス内の食堂で須藤先生らと昼食。「麦とろ豚丼」をいただいた。龍谷大学からは交通費と謝礼をいただき、それはそっくりそのまま、旅の資金の一部にさせてもらった。須藤先生、ありがとう!

東海道の終点にいたる

 龍谷大学の瀬田キャンパスから大津市内に戻ると、旧東海道で京都へ。
 国道1号に合流し、坂を登りつめたところが逢坂山峠(おうさかやまとうげ)。そこには「逢坂山関址」の碑が建ち、小公園になっている。峠から右側の旧道に入ると、鰻料理の老舗「かねよ」がある。峠を下り、京都府に入る。国道1号と分れ、山科に入り、最後の峠、九条山の日ノ岡峠(ひのおかとうげ)を越える。
 よく「京の七口」といわれるが、この道は「粟田口(あわたぐち)」。日ノ岡峠はかつては難所で、雨や雪が降れば、牛車や馬車はぬかるみに車輪をとられて立ち往生した。日ノ岡峠を下っていくと京阪三条駅前に出、鴨川にかかる三条大橋を渡る。この橋が東海道の終点だ。
 京都に到着すると坂本の西教寺で明智光秀の墓を見たこともあって、まずは本能寺へ。織田信長廟に手を合わせた。次に近くの「京都の台所」、錦小路を歩いた。最後に山城国の一の宮、上賀茂神社と下鴨神社を参拝し、国道24号で奈良に向かった。

フォトアルバム



龍谷大学の瀬田キャンパスに到着

駐輪場にはズラリとバイクが並ぶ
駐輪場の裏手には自然度満点の山野が広がる


昼食の「麦とろ豚丼」
大津の旧東海道を走る京阪電車


国道1号の逢坂山峠
逢坂山関址


東海道の終点、京都・三条大橋
三条大橋の『東海道中膝栗毛』の弥次・喜多像


信長廟のある本能寺
錦小路を歩く


上賀茂神社を参拝
下鴨神社を参拝


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