カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

第26回 土佐寺川

投稿日:2011年1月17日

2010年 林道日本一周・西日本編

四国三郎「吉野川」の源流を眺める

 ロングダートの竹ノ川・自念子林道を走りきり、寺川に降りると、今度は寺川秋切林道で吉野川の源流に向かっていく。源流橋の上でスズキDR?Z400Sを停め、吉野川源流の流れを眺めた。
 吉野川は生まれたときから川名は吉野川。河口の徳島まで、ずっと「吉野川」で、そのまま紀伊水道に流れ出ていく。
  坂東太郎
  筑紫次郎
  四国三郎
 と、日本を代表する3大河のうち、坂東太郎(関東)の利根川はやはり源流から河口までが「利根川」だが、筑紫次郎(九州)の筑後川は本流の玖珠川が大山川と合流して三隈川になり、大分県から福岡県に入って筑後川になる。
 四国のもうひとつの大河、四万十川は松葉川→仁井田川→四万十川と名前を変え、最後は渡川になって土佐湾に流れ出ている。
 源流から河口まで同じ川名という大河はそれほど多くはないのだ。
 寺川秋切林道は3・8キロのダートを走ったところで行止まり。そこでチョロチョロと流れ落ちる吉野川の源流を眺め、寺川に戻った。

宮本常一先生の名著「忘れられた日本人」の舞台にふたたび

 山また山の寺川は周囲とは隔絶されているかのような山村。ここは宮本常一先生の名著『忘れられた日本人』の「土佐寺川夜話」の舞台だ。
 
「土佐山中の農民の生活がどういうものであるか。檮原から東北へ十里あまり行ったところに寺川というところがあり、その村のことを、十年ほどまえに書いて見たことがある。」ではじまる「土佐寺川夜話」では、宮本先生は寺川がどのようなところなのかを次のように説明している。

 もう十年もまえのことです。ちょうど戦争が始まったばかりの十二月九日のことでした。私は伊予の小松から土佐の寺川という所へこえました。
 その年の一月にやはり寺川へ行ったのですが、その時「旅の人はまた来るというけれど二度来た人はいない」と言われたので、「私だけはもう一度必ず来ます」と言ってしまったのです。その責任上どうしても行かねばならず、出かけて行ったのです。この道がまた大変な道で、あるかなきかの細道を急崖をのぼったり、橋のない川を渡ったりして木深い谷を奥へ奥へといきました。
『忘れられた日本人』岩波文庫版

 ぼくが初めて寺川に行ったのは今から20年以上も前のことだ。その当時、すでに長沢から寺川までの道は舗装されていたが、寺川からよさこい峠(当時は予佐越峠と漢字で表記していた)までは全線ダートの長沢林道だった。長沢林道が開通するまでは伊予(愛媛県)に通じる自動車道はなかった。
 さらにそれ以前は…。
 寺川には松本直吉の墓が残されている。それには次のような説明が記されている。

「藩政時代には、この附近の山は土佐藩が管理し、伐採を禁じていましたが、立派な木が多かったため、他藩の者による盗伐が横行していました。松本直吉はその取締りを命ぜられた人ですが、盗伐者を取りおさえようとして気丈にも単身で赴き命を落としました。死後発見され、村人に手厚く葬られたものです」

 宮本先生の「土佐寺川夜話」でも山番役人の話が出てくる。

 寺川は山深い里で、たった十七軒の家があちこちに三、四軒ずつあって、ちょっと村の集会をするのにも半道位は歩いて行かねばならぬ者が多いのです。どうしてこんな山の中にまで人は住まねばならなかったのでしょう。
 今から三百数十年のまえには、もうこの村のあったことは慶長の検地帳の残っていることでもわかりますが、伊予との境にあって、大事な見はり場所だったらしく、寺川の東の越裏門というところには番人庄屋がおり、寺川には山番役人が高知の城下から交代でつとめておりました。村の人たちは山番をかねており、伊予の方から山林の盗伐に来る人たちを見まわるのを仕事にしておりました。そのため無税無年貢であったと申します。
『忘れられた日本人』岩波文庫版

 
宮本先生の「土佐寺川夜話」には、まだまだ山番の話や盗伐者の話がつづく。
 実際にこうして寺川に行き、寺川をとりまく山々の林道を走ってみると、「土佐寺川夜話」がまるで砂に水がしみこむように、すーーーっと頭の中に入っていくのだった。

フォトアルバム

竹ノ川・自念子林道から見下ろす寺川の集落
寺川秋切林道のダートに突入!


吉野川の源流へ
源流橋を渡る


源流橋から見る吉野川源流
吉野川は生まれたときから「吉野川」


寺川秋切林道の行止まり地点
林道行止まり地点の吉野川源流


寺川のバス停。長沢行きのバスは1日2便
寺川の集落


寺川の集落
寺川では藤の花がきれいに咲いていた


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