カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

第77回 中山道

投稿日:2011年3月27日

2010年 林道日本一周・西日本編

12天守のひとつ、国宝松本城をスタートに

「東横イン」のおにぎり&味噌汁の朝食を食べ、松本駅前を出発。スズキDR-Z400Sを走らせ、「12天守」のひとつの松本城へ。
「12天守」というのは、日本に現存する天守閣を持つ12の城のこと。北からいうと弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城と四国の4城(丸亀、松山、宇和島、高知)になる。
 松本城の5層6階の天守閣は、小天守や3つの櫓とともに国宝に指定されている。全体を黒く塗った城は「烏城」の異名をとっているが、「12天守」のうちでも、犬山城、彦根城、姫路城と並ぶ「国宝4城」のひとつになっている。松本城は日本屈指の名城なのだ。
 松本から国道19号で塩尻へ。塩尻からは中山道の宿場をひとつづつたどりながら岐阜県の中津川まで行ってみる。さー、カソリの「街道を行く!」の開始だ。
 まずは塩尻宿。国道153号沿いがかつての宿場になるが、国道沿いには本陣跡の碑が建っている。脇本陣跡の碑もある。
 塩尻宿からは中山道の旧道を行く。塩尻の町並みが途切れたあたりが平出で、道の両側に「平出一里塚」がある。そこの案内板には「平出一里塚」が詳しく説明されている。

 一里塚は慶長9年(1604年)より徳川秀忠の命により各街道に築かれ、同12年にはほぼ完成をみた。秀忠は永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中山道筋の幕府領、私領をとわず人足を徴発して道を整備した。江戸日本橋を基点として36町を1里として、1里ごとに道の両側に一里塚を築かせた。塚の頂上にはエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜をはかった。
 その道路幅は5間(約9m)、塚は5間四方、高さ1丈(2・3m)と定められたが、明治以降はその必要がなくなり、次々に消滅していった。県下でも平出のような原形を保つものは極くわずかとなった。
 江戸時代当塩尻市内は、3つの街道に沿って8ヵ所に一里塚が築かれたが、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。この平出の一里塚は日本橋の基点より59番目のもので、宝暦6年(1756年)の頃には、この附近に2軒の茶屋のあったことがわかっている

 平出一里塚を過ぎると、「平出遺跡」。ここは縄文時代から平安時代にかけての大集落跡だ。長年の発掘調査で縄文時代中期が60、縄文時代後期が2、古墳時代が79、平安時代が28、時期不明が30と、計199軒の住居跡がみつかっている。そこから出土した土器や石器などは近くの平出博物館に展示・収蔵されている。
 平出の里を過ぎると、いったん国道19号に合流し、そのあと洗馬宿、本山宿と旧道に入って宿場に寄っていく。
 洗馬宿の入口は中山道と松本、長野に通じる善光寺街道の追分(分岐点)。洗馬宿は昭和初期の大火で200軒以上の建物が消失したので古い宿場の面影はほとんどない。
 本山宿は洗馬宿とは対照的に中山道の宿場も面影を今にとどめている。ここは日本の「そば切り」発祥の地といわれている。「本山そばの里」で「盛りそば」(870円)と「そばがき」(420円)を食べたが、「盛りそば」のような「そば切り」以前の日本人の食べるそばは、そば粉をこねて固めた「そばがき」が一般的だった。
 本山宿を過ぎると国道19号の脇には「是れより南 木曽路」の石碑が建っている。国道の両側には山々が迫り、贄川宿に到着。ここには贄川関所跡。石置屋根の贄川番所が当時の姿で復元され、「木曽考古館」になっている。
 贄川宿から中山道の「木曽11宿」がはじまる。

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松本城→塩尻→贄川宿

松本駅前を出発
松本城


松本盆地の水田
国道153沿いの塩尻宿


塩尻宿の本陣跡
平出一里塚


平出遺跡
洗馬宿の追分(右が中山道)


洗馬宿
本山宿


「本山そばの里」の盛りそば(右)&そばがき
「是れより南 木曽路」の石碑


JR中央本線の贄川駅
復元された贄川関所


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