カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

5月11日(3)小名浜・三崎→富神崎

投稿日:2011年5月27日

頑張ってるぞ!東北!! ツーリング[鵜ノ子岬→尻屋崎 4]2011年5月11日

 小名浜の三崎からは竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎、富神崎と岬をめぐっていく。
 海岸線を行く県道15号は全線通行可。道路にはまったく被害は出ていない。交通量もいつも通り。その県道15号からさらに海沿いの道に入っていく。
 竜ヶ崎と中之作漁港、合磯岬と江名港と、岬とセットになった漁港は大きな被害を受けていたが、ここでも岬に守られ、壊滅的な状態にはなっていない。海岸沿いの家々はほとんどが残っている。

中之作漁港
江名漁港


江名の家並み
豊間に入っていく


 ところがその北になると状況は一変した。
 灯台のある塩屋崎の南側は豊間海岸、北側は薄磯海岸になるが、大津波は堤防を破壊し、堤防を乗り越え、豊間と薄磯の集落を飲み込んだ。
 ともに壊滅的な状態…。300人以上犠牲者がこの2つの集落から出ている。いわき市の被害は死亡、行方不明を合わせると400人近いが、その大半は豊間と薄磯に集中している。
 豊間に入っていく道はいわき病院の先で、ガレキの撤去作業のため8時から17時までが通行止。交通整理をする人に聞くと、塩屋崎の美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑は奇跡的に無傷で残ったという。

豊間は壊滅状態
8時から17時までは通行止


 このいわき病院の前には友人の坂本さんがやっているマッサージ医院がある。建物は残ったが、人影はまったくなかった。
 これは東京に帰ってからのことになるが、坂本さんの安否が心配で電話してみた。古い電話番号に電話してみると、「転居しました」との案内。その新しい電話番号に電話すると、なんと今は長野県の東御(とうみ)市にいるとのこと。坂本さんの家は今回の大津波で大きな被害を受け、とても住める状態ではないという。それで信州に避難したのだ。
 そのことが地元の新聞に載り、東御市の病院から坂本さんを雇いたいという話があり、正式な職員として採用されたという。電話の声は元気そうで、坂本さんの信州での新たな生活がはじまった。今回の大震災は坂本さんのようなドラマを各地でつくっている。
 豊間からは県道15号経由で薄磯へ。北側から薄磯に入ろうとしたのだが、ここも8時から17時までは通行止。薄磯の状況は豊間よりもさらにすさまじいものでまさに壊滅状態。その中にあって一番北側にある民宿「しんべい」の建物は残っていた。ここは1989年の「日本一周」で泊まったところ。みなさんにはよくしてもらった。
 そのときの岬めぐりを紹介しよう。

 小名浜からひとつ、またひとつと岬に立った。
 最初は三崎だ。小名浜港の北側に突き出た岬で、北風を防ぐ天然の防波堤になっている。岬全体が公園で、中央にはマリンタワーがそびえ、岬突端の潮見台には、展望台が海上に延びている。この海上展望台は迫力満点。岬の断崖から一歩、足を踏み外し、海上をフワフワ飛んでいるような気分にさせられる。
「怖いわ。もし、地震でも起きたら…どうしよう…」
 わずかに揺れる海上展望台では若い女の子が男の子にしがみついている。
 次に竜ヶ崎、合磯岬に立ち、最後に塩屋崎へ。三崎から塩屋崎までは、ほぼ3キロの等間隔で岬が並んでいる。何とも規則正しい地形なのである。
 第三紀層の丘陵が波の浸食によって削られた塩屋崎では、灯台下の駐車場にスズキ・ハスラー50を停め、急傾斜の石段を登った。高さ50メートルほどの海食崖に囲まれた岬の上からの眺めは絶景で、南側には豊間漁港を見下ろし、北側には薄磯海岸の砂浜を一望する。
 岬の下に歌碑があった。
「春は二重に巻いた帯
 三重に巻いても余る秋
 暗らや涯なや塩屋の岬」
 1989年6月に亡くなった美空ひばりの『みだれ髪』の歌詞が彫り刻まれていた。
 ひばり人気を物語るように、歌碑の前には缶ビールや缶ジュース、菓子、果物、花束などが供えられていた。
 薄磯海岸の海水浴場は、すでに夏の終わりといった風情で、海の家がとり壊されている最中だった。
「しんべい」という民宿で泊まった。客はぼくのほかには一家族だけで、12畳敷をぶち抜いた24畳の部屋を一人で使わせてもらった。民宿の夫婦、娘さんとも、なんともやさしい人。笑顔とか、ちょっとした仕草に感じるやさしささはとろけるようなもの。そこに東北人を強く感じるのだった。

『50ccバイク日本一周2万キロ』JTB刊より

県道15号は全線が通行可
県道15号沿いの「セブンイレブン」


薄磯も壊滅状態
民宿「しんべい」は残った!


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