カソリング

生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

環日本海ツーリング[75]

投稿日:2012年5月26日

歴史的瞬間に出くわしたホルムスク沖へ再び

 ロシア本土のワニノ行きのフェリー「サハリン7」は午前9時、ホルムスク港を出港。ホルムスク港が遠ざかり、港外に出ていく。
 ロシア製カンビールを持って甲板に立ちつくし、タタール海峡(間宮海峡)の海上からホルムスクの港、町並みを眺めた。

「サハリン7」、出港!
ホルムスク港が遠ざかっていく


ホルムスクの港外に出る
タタール海峡(間宮海峡)から見るホルムスク


 遠ざかっていくホルムスクを見ていると、1991年の「サハリン南部周遊」が思い出されてならなかった。
 そのときは稚内港でロシア船の「ユーリー・トリフォノフ号」(4600トン)にバイクともども乗り込んだ。最初はコルサコフに向かう予定だったが、稚内港を出ると、急きょ、行き先がホルムスクに変更された。
 ということでホルムスクに上陸し、ユジノサハリンスクに向かったのだ。
 ユジノサハリンスクを拠点にしてサハリン南部をまわり、最後にまたホルムスクに戻ってきた。そして「ユーリー・トリフォノフ号」に乗船した。
 それは1991年8月19日のことで、出港したのは15時15分だった。
「ユーリー・トリフォノフ号」がホルムスク港の港外に出たとき、船内は騒然とする。
 ソ連にクーデターが発生し、ゴルバチョフ大統領がクリミアで軟禁されたというニュースが飛び込んできたからだ。
 緊迫した時間が過ぎていく。
 船はこのまま稚内に向かうのか、それともホルムスクに引き返すのか…。まさに手に汗を握るような時間の経過だった。
 何ともラッキーなことに、「ユーリー・トリフォノフ号」はホルムスク港を出たということで、そのまま日本海を南下し、稚内港に向かうことになった。速力をガクンと落として海上に漂っていた船は再度、速力を上げた。
 もし1991年8月19日のクーデターがもう30分、早く発生していたら、船はホルムスク港を出港することなく、そのまま港に停泊しつづけたことだろう。そのときはいつ稚内に帰れたことやら…。
 クーデターは結局、失敗に終った。だが世界最大の連邦国家、ソ連邦は8月19日を機に、一気に崩壊への坂道をかけ下った。
 ぼくはサハリンのホルムスクで、世界現代史の大きな一場面に出くわしたのだ。

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